すると彼女は考え込むような顔つきになり、エレーラのほうを見て、次に俺を見てから(と言っても俺よりエレーラのほうをずっと強く見つめていたが)、正確なところは自分にも分からないと言った。血を飲んでいたのかもしれないし、便器に捨てていたのかもしれない、その血に小便をしたのかもしれないし糞を垂れていたのかもしれない、あるいはそのどれでもないかもしれない、裸になって全身に血を塗りたくり、そのあとシャワーで洗い流していたのかもしれない、でもこれらはすべて推測の域を出ないのだと。そのあと三人とも口をつぐみ、やがてリザ・ド・エリーザがようやく口を開いて、いずれにせよその人はとても苦しみ愛していたのよ、と言った。

 そのあとエレーラが彼女に、そのフランスのチームにいた黒人の魔術は本物だったのかな、と尋ねた。いいえ、とリザ・ド・エリーザは答えた。彼は狂っていたのよ。本物のはずがないでしょ。するとエレーラが尋ねた。じゃあ、どうして彼のチームメイトたちは前よりいいプレーをするようになったんだ? その人たちがいい選手だったからでしょ、とリザは答えた。そのとき俺が割って入って、とても苦しんでいたというのはどういう意味なのかと尋ねた。どう苦しんでいたんだい? すると彼女は、全身でよ、いえそれだけじゃない、全身全霊で苦しんでいたのよ、と答えた。
 どういう意味だい、リザ、と俺は尋ねた。
 頭がおかしかったってこと、と彼女は答えた。

  ——ロベルト・ボラーニョ「ブーバ」『売女の人殺し』

 

ここ最近サッカーを観ているきっかけはボラーニョのブーバを読んだことだった。初めて読んだとき、意味不明なものが不明なまま唐突に差し置かれていることに仰天して、それからサッカー選手の感傷というものがものすごく新鮮に思えた。勝利に拘泥するスポーツ選手の、脇道に逸れた感情が書いてあるということが。

この手の感傷とうまく付き合えない。もはやこの日常において、過ぎたときを思い出すことや、いなくなった誰かを回想すること、安易にセンチメンタルになることは、非合理的だから嫌いだ。だからこそ同時に、感傷的な気分を書いたり読んだりすることの何が悪いんだよ、とも思う。思いながら、自分の中で決定的な何かを失いそうなところを、ぎりぎりで離さないようにする。

ボラーニョを読むと、人の弱さとかどうしようもないところ、だめなところを見るのが本当はすごく好きだと思い出す。人の一貫してなさとかちゃんとしてなさを思い出す。自分のだめなところが大嫌いで、だから誰かのそういうところを愛していたことを思い出す。そういうものは案外あっけなく終わっていく。またそういうふうに人と関わることができるだろうかと思う。