よく目をこらすと幾層にもベールがかかっていそうだった。そういった重厚な堆積を感じた。そのまま琥珀色の液体に唇をつけると、鼻腔に抜ける華やかさと、鉛のように胃に落ちる重たさが同時にひろがって、眼球が燃えるような、あるいは鮮やかな色がつくような、肺の中に水が侵入するような、毛布にくるまって目をとじるような、そういう感覚でいっぱいになる。ようやくひとりきりになれたと思った。それでいて、来るか来ないかわからない人を寝転んで待っているときのような、あのときに見ていた天井の他人行儀な遠さ、目の前にいる微笑む人が何を考えているのかわからなかったこと、あるいは目の前の人のことがすべてわかってしまいそうだったこと、わたしよりもその人のことが好きだったはずの人が何もわかっていなかったこと、何かを飛び越えてしまいそうだったこと、だから何も言えなかったこと、そういうときの記憶が断片的に頭の中を駆け巡って、今が膨れ上がって手に負えない。なんとなく手元の活字に目を落としながら、ぼやけた修飾語と、空間を埋めつくすギター・ロックと、送迎会のにぎわしさ、グラスに注がれるビールの泡、そういったものの区別がなくなっていくのを眺めていた。来るか来ないかわからない人なんてずっと来ないんだし、来ないかもしれないものを待っている時間なんて本当は最初から持ち合わせていなかったんだし、ということが、年々腑に落ちていくけれど、腑に落ちるっていう言い方は、身体の感覚をきれいに言い表した慣用句で、今飲んでいる琥珀色をした液体みたいに、少しずつ重たいものが内臓に落ちていって自分に取り込まれるんだ。何かが腑に落ちてしまった瞬間に、心は海底に重りを降ろすように、それまでの自由さを失ってしまう。腑の中身がぽっかり抜け落ちたままの軽い自分はどこにも錨を降ろせないままだったし、重りのない心はどこにでもいくことができた。良い女の子は天国に行けるけれど、悪い女の子はどこにでも行ける。そう言ってましたよね。王国の絵を描いた画家の言葉を口にしたあの日から、時折言い聞かせるように心の中で反芻していた。どこにだって行ける。そう信じていた。けれど、根を下ろせない心のままどこにでも行けることよりも、土の道を踏みしめて一歩ずつ歩いていけるほうを今は選びつつあるんだと思う。錨を降ろしつつある。でも、同じ場所にくくりつけないように。乗り物に運ばれて、コンクリートで塗り固められた道を久しぶりに歩いたら、どこが地面なのかわからなくて具合が悪くなりそうだった。どの場所を歩いているのか、自分で確かめたいと思った。東京の桜は、指先でつつけば消えそうで、薄甘い白さが優しくて、どこまでもよそよそしい。