アーモンドのチョコレート

ゆらゆら帝国聴いていたら、昔に2回くらい適応障害と診断されたことを思い出した。だからなんだということもないけれどその事実を書いておいたほうが自分にとっていいような気がして書いておく。あまり人に言うことでもないし、特にオフィシャルな場では不利に働くから絶対に口に出さないと決めている。でも人に言わないことって自分の中でもどんどん薄れていく。記憶は使わなければいつか錆びついて溶けていってしまう。その頃のことは断片的にずっと書いてきているけれど、とにかく色んなことのやり方がわからなかった、友達も恋愛もセックスも時間や約束の守り方さえなんにもわからなかったのに全部を一気にしなくちゃなんなくなって、その頃のことを甘く思い出して弄んでみたり苦々しく噛み潰してみるけれど、診断があった頃の周辺のことを思い出そうとすると頭の中に靄がかかってよく思い出せない。ただ、皮膚の中に染みこんで突き刺すような茨城の真冬の寒さとか、箱庭療法のセットが置かれた陰気くさい相談室とか、そのときどきで変わる精神科の先生の声色とか、春になると突然プランターの寄せ植えがあらゆる色でいっぱいになったことが、コマ割りのように断続的に再生されて、次にやってくるのは東京に来た春は信じられないくらい桜が綺麗だったこと、まるで鈴木清順ツィゴイネルワイゼンみたいに、途方に暮れるくらい綺麗だったこと。

わたしは特に人間関係にまつわる色んなことがうまくできないけど、多分うまくできない自覚以上に能力の高さと客観性を持っている自信もあって、だから普通じゃない部分を自分の力で全部カバーできると思っている傲慢なところがある。自分の意思よりも先にどう振る舞えばその場で最適解なのかがすぐにわかるから、正解とされる行動を取り続けてきて、結果的に自分の首を絞めることになっていて、近頃は本当に苦しい。色んなことのやり方を覚えたけれど、外箱だけがどんどん丈夫に分厚くなっていって、わたし自身の中身は失われていく。だから、色んなことがうまくできない自分を大事にすることが本当に大切で、うまくいかなかった頃のことばかり思い出すことはものすごく大事なんだと思う。他者と適切に関われるようになったらこういうふうに昔のことなんか思い出すことも必要なくなるのかもしれない、そうなったら未来の話とかするのかもしれないけれど、そんな日がくるかもわからないし、期待もしてない。

脈がずっと早くて、熱が下がらないまま4日経った。本当はこのままずっと熱が下がらなければいいと思う。もしずっと治らなければ、乗ってしまったレールから降りて誰からも期待されなくてよくなるし、自分にも期待しなくていい。何もかもおしまいにしてしまいたい。甘い想像。