権威や暴力や国家に抵抗する力を失くしたときのために、または誰かのために。
(随時更新する。気が向いたら感想も書きます)
権威や暴力や国家に抵抗する力を失くしたときのために、または誰かのために。
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よく目をこらすと幾層にもベールがかかっていそうだった。そうい
急に大きな出来事の中に放り込まれて立たされると、それまで連綿と考え続けてきたことが急に別の側面を見せ始めるというか、自分の中でパラダイムシフトが起こったような気になる。体験したことと体験していないことの間には多分どうしたって埋められない境界があるんだと思う。どちらが優位だとか言いたいわけではないけれどそのように思ってしまう。その境界に対してどこまでやるのかということが多分重要で、理解し続けようとすることと対話しようとすることがせめて誠実でいる方法なんじゃないかって思う。でも、相手がそれを望んでいない場合は?あるいはそのような姿勢が適していない環境にいる場合は? そういうことを考え続けて結局答えが出なかった去年だった。ただ、答えを出す過程には確かにいたと思う。だからその過程を続けるための今年にしたかったけれど、その一日目の昼下がりに今まででいちばんくらいの揺れを経験して、家族が無事でいるのかわからない数分間があり、津波と火事の映像を見ることしかできない時間や、あの人は無事だろうかと心配になる時間があり、何事もなく明日を過ごせるだろうかという不安がある。そのような時間を経てしまったら、それまでの考えに対して決定的な疑問を持たずにいられない。そのような疑問を飲み下そうとしながら今年も考え続けなければいけないのだろうと思うし、そのために覚えておくべきと思ったから書いておく。
夢の中でルースターズのライブに立ち会っていて、自分でも驚くくらい叫びながら最前列まで走っていって、大江慎也と花田裕之を一生懸命見上げたけれど、まぶしくて目が開けられなかった。ロージーとフール・フォー・ユーをやってくれたと思う。起き抜けのぼんやりした頭でサブスクの配信が始まっていたことを知った。しかも2ヶ月くらい前から。全然知らなかった。
アルバム2枚分の音源だけ持っていて、10年くらい聴き続けた。ベースラインやギターソロのひとつひとつを取り出してさわれそうになるんじゃないかと思うくらい聴いた。初期のころの少しだけ垢抜けないリズムと、大江の情けなくてロマンチックなボーカルが好きだ。ニューウェイブの色が強くなってからの曲はYouTubeとかで見ていた。いつかちゃんと聴きたかった。版権元がばっくれて連絡つかないとは知っていて、そういう話もなんか好きだなと思っていた。
死にそうにかっこいい。
ヴェルヴェッツのカバーしてるのも今まで知らなかった。
見たいもの・あるいはきちんと見なければいけないものを前にしてどうしても目が開けられない、という夢を頻繁に見ている。そのたびにこんな自分のままでは、という気持ちになる。次に憧れの人が出てきたときはちゃんと目を開けていられる自分になりたい。
みんな好きだと言っている人だったけれど正直なところそこまで思い入れもなかったし、というよりはそのバンドがきっかけで苦い出来事があったから余計に聴かなくなったのかもしれない。今じゃ忘れていたことだけど何かのトリガーになっているようないつかがあって、バンド名さえ目に入らないようにしていたかもしれない。そのような努力をせざるを得なかったのはなぜだろう。そのときの凝り固まったような気分がむせかえる。水色のコートを着た人の気持ちをずっと考えていたことを思い出す。記憶にあるのは後ろ姿だけ。別のことを思ってもいいはずなのに、ラブコールを受けたりカレンダーになりたかったあの娘のことばかり考えて、決まっていつもさみしくなって、聴くのをやめてしまう。
義務的な文字の交換だけで顔も声も知らない、というような人たちとのやりとりが増えていて、なんとも思っていなかったけれど、ちょっとしたきっかけでその人の暮らしを垣間見るような出来事があった。この6年間、と書かれていた。その年月をどのような気持ちで過ごしてきたのだろう。吸い込んだ孤独で肺がいっぱいになっていまにも溺れそうな文章だった。そういうところへ考えなしに入っていけば、散々な目にあうかもしれない。けれどやっぱりそういうものが気になってしょうがない。その人にとってみればわたしだって声も顔もわからない、文字だけが浮かび上がって存在するだけの他人。このような位置だからこそ見える、その人の輪郭や影というものがある。目をそらせばなかったことにできるものを拾うことにも意味があるのかもしれない。こう書いていて気づいたけれど、信じられないことに、平日は生身の人間を見かけることすらない生活が続いている。