家父長制あるいは権威主義、その他イデオロギーによる暴力に中指を立て続けるためのメモ

権威や暴力や国家に抵抗する力を失くしたときのために、または誰かのために。
(随時更新する。気が向いたら感想も書きます)

 

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よく目をこらすと幾層にもベールがかかっていそうだった。そういった重厚な堆積を感じた。そのまま琥珀色の液体に唇をつけると、鼻腔に抜ける華やかさと、鉛のように胃に落ちる重たさが同時にひろがって、眼球が燃えるような、あるいは鮮やかな色がつくような、肺の中に水が侵入するような、毛布にくるまって目をとじるような、そういう感覚でいっぱいになる。ようやくひとりきりになれたと思った。それでいて、来るか来ないかわからない人を寝転んで待っているときのような、あのときに見ていた天井の他人行儀な遠さ、目の前にいる微笑む人が何を考えているのかわからなかったこと、あるいは目の前の人のことがすべてわかってしまいそうだったこと、わたしよりもその人のことが好きだったはずの人が何もわかっていなかったこと、何かを飛び越えてしまいそうだったこと、だから何も言えなかったこと、そういうときの記憶が断片的に頭の中を駆け巡って、今が膨れ上がって手に負えない。なんとなく手元の活字に目を落としながら、ぼやけた修飾語と、空間を埋めつくすギター・ロックと、送迎会のにぎわしさ、グラスに注がれるビールの泡、そういったものの区別がなくなっていくのを眺めていた。来るか来ないかわからない人なんてずっと来ないんだし、来ないかもしれないものを待っている時間なんて本当は最初から持ち合わせていなかったんだし、ということが、年々腑に落ちていくけれど、腑に落ちるっていう言い方は、身体の感覚をきれいに言い表した慣用句で、今飲んでいる琥珀色をした液体みたいに、少しずつ重たいものが内臓に落ちていって自分に取り込まれるんだ。何かが腑に落ちてしまった瞬間に、心は海底に重りを降ろすように、それまでの自由さを失ってしまう。腑の中身がぽっかり抜け落ちたままの軽い自分はどこにも錨を降ろせないままだったし、重りのない心はどこにでもいくことができた。良い女の子は天国に行けるけれど、悪い女の子はどこにでも行ける。そう言ってましたよね。王国の絵を描いた画家の言葉を口にしたあの日から、時折言い聞かせるように心の中で反芻していた。どこにだって行ける。そう信じていた。けれど、根を下ろせない心のままどこにでも行けることよりも、土の道を踏みしめて一歩ずつ歩いていけるほうを今は選びつつあるんだと思う。錨を降ろしつつある。でも、同じ場所にくくりつけないように。乗り物に運ばれて、コンクリートで塗り固められた道を久しぶりに歩いたら、どこが地面なのかわからなくて具合が悪くなりそうだった。どの場所を歩いているのか、自分で確かめたいと思った。東京の桜は、指先でつつけば消えそうで、薄甘い白さが優しくて、どこまでもよそよそしい。

急に大きな出来事の中に放り込まれて立たされると、それまで連綿と考え続けてきたことが急に別の側面を見せ始めるというか、自分の中でパラダイムシフトが起こったような気になる。体験したことと体験していないことの間には多分どうしたって埋められない境界があるんだと思う。どちらが優位だとか言いたいわけではないけれどそのように思ってしまう。その境界に対してどこまでやるのかということが多分重要で、理解し続けようとすることと対話しようとすることがせめて誠実でいる方法なんじゃないかって思う。でも、相手がそれを望んでいない場合は?あるいはそのような姿勢が適していない環境にいる場合は? そういうことを考え続けて結局答えが出なかった去年だった。ただ、答えを出す過程には確かにいたと思う。だからその過程を続けるための今年にしたかったけれど、その一日目の昼下がりに今まででいちばんくらいの揺れを経験して、家族が無事でいるのかわからない数分間があり、津波と火事の映像を見ることしかできない時間や、あの人は無事だろうかと心配になる時間があり、何事もなく明日を過ごせるだろうかという不安がある。そのような時間を経てしまったら、それまでの考えに対して決定的な疑問を持たずにいられない。そのような疑問を飲み下そうとしながら今年も考え続けなければいけないのだろうと思うし、そのために覚えておくべきと思ったから書いておく。

夢の中でルースターズのライブに立ち会っていて、自分でも驚くくらい叫びながら最前列まで走っていって、大江慎也花田裕之を一生懸命見上げたけれど、まぶしくて目が開けられなかった。ロージーとフール・フォー・ユーをやってくれたと思う。起き抜けのぼんやりした頭でサブスクの配信が始まっていたことを知った。しかも2ヶ月くらい前から。全然知らなかった。

アルバム2枚分の音源だけ持っていて、10年くらい聴き続けた。ベースラインやギターソロのひとつひとつを取り出してさわれそうになるんじゃないかと思うくらい聴いた。初期のころの少しだけ垢抜けないリズムと、大江の情けなくてロマンチックなボーカルが好きだ。ニューウェイブの色が強くなってからの曲はYouTubeとかで見ていた。いつかちゃんと聴きたかった。版権元がばっくれて連絡つかないとは知っていて、そういう話もなんか好きだなと思っていた。

死にそうにかっこいい。

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ヴェルヴェッツのカバーしてるのも今まで知らなかった。

FEMME FATALE

FEMME FATALE

  • provided courtesy of iTunes

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見たいもの・あるいはきちんと見なければいけないものを前にしてどうしても目が開けられない、という夢を頻繁に見ている。そのたびにこんな自分のままでは、という気持ちになる。次に憧れの人が出てきたときはちゃんと目を開けていられる自分になりたい。

みんな好きだと言っている人だったけれど正直なところそこまで思い入れもなかったし、というよりはそのバンドがきっかけで苦い出来事があったから余計に聴かなくなったのかもしれない。今じゃ忘れていたことだけど何かのトリガーになっているようないつかがあって、バンド名さえ目に入らないようにしていたかもしれない。そのような努力をせざるを得なかったのはなぜだろう。そのときの凝り固まったような気分がむせかえる。水色のコートを着た人の気持ちをずっと考えていたことを思い出す。記憶にあるのは後ろ姿だけ。別のことを思ってもいいはずなのに、ラブコールを受けたりカレンダーになりたかったあの娘のことばかり考えて、決まっていつもさみしくなって、聴くのをやめてしまう。

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義務的な文字の交換だけで顔も声も知らない、というような人たちとのやりとりが増えていて、なんとも思っていなかったけれど、ちょっとしたきっかけでその人の暮らしを垣間見るような出来事があった。この6年間、と書かれていた。その年月をどのような気持ちで過ごしてきたのだろう。吸い込んだ孤独で肺がいっぱいになっていまにも溺れそうな文章だった。そういうところへ考えなしに入っていけば、散々な目にあうかもしれない。けれどやっぱりそういうものが気になってしょうがない。その人にとってみればわたしだって声も顔もわからない、文字だけが浮かび上がって存在するだけの他人。このような位置だからこそ見える、その人の輪郭や影というものがある。目をそらせばなかったことにできるものを拾うことにも意味があるのかもしれない。こう書いていて気づいたけれど、信じられないことに、平日は生身の人間を見かけることすらない生活が続いている。

冬はどうしてこうも幸福な時期なのだろう。否応がなく外で人が集まったり、家で過ごしたりする。そわそわした気分のままなんとなく連絡が来たりして、そのうちに行き来が発生する。だからいつも身の置き所がなくて困り果てたような気分になっていた。気づけば冬生まれの人ばかり好きになっていて、年末に体調を崩してしまう。今年は一年かけてできるだけ波のないように過ごしてきたつもりだし、だから年の終わりまで塞がずに過ごしたい。過剰に物を捨てたりせずに。だいたいのことを寛容に受け入れたい。殆ど祈るような気持ちで安寧を続けるための努力をしている。年が明けたら、壊れたお守りを火にくべたり、おみくじを引いたりしたい。