代わり

家を引き払うとは聞いていたけれど、真正面に座ったその人が目を伏せて、実家に帰るんだ、といったら、なんだか何も言えなくなって、というか何を思ったらいいのかわからなくなって、そっかまあゆっくり休みなよ、夏じゃん、とか言ってとりあえずビールを飲んだ。両隣の席はどちらも若い男の子たちが4人か5人座っていて、え、お前告ったの?という言葉が大きな石をぶつけられたように耳にとびこんできた。うるさいなあ、と思った。男の子たちは何度か席を立って煙草を吸いに行っていた。目の前の人は煙草を吸うんだっけ?と思い出そうとすることも忘れていた。いつもどおりにタランティーノとか香港ノワールの映画の話をずっとして、いなくなったらさみしいよって喉まで出かかった言葉をぽんと言ってしまえば嘘に変わってしまう気がして、寂しいなんていう資格はわたしにないし、その子がいなくなってもわたしはわたしの生活を続けるだけでわたしの暮らしはあなたにはなんの関係もないしなあ、という気持ちのほうが強くて、遊びにいくからと言いたかったけど、言ったら満足して絶対会いに行くわけないこともわかってた。東京、また戻ってきたいわとその人は言って、その言葉は酒場の空気そのものの、あまくてやわらかくてきらきらした一回きりのベールに包まれているように聞こえて、掴めるものなら両手で捕まえてしまいたい。また戻ってきなよ、と言って適当に笑って、じゃあ元気でねとかって言うのも馬鹿馬鹿しくて、何かを言う代わりにたくさんお酒を頼んで飲んだ。体内をかけめぐるアルコールは一人になった途端にものすごい勢いで感情を上下させる。帰り道をずっと歩いていたら突然紫陽花の木に行き当たった。大きな薄青い花の塊が見上げるほど上のほうまでいくつも咲き誇って、みずみずしく頭をもたげていた。蒸し暑い夏の真夜中にその色と水気がつめたく飛び込んできて、手を伸ばして丹念に花を触った。しっとりと吸いつくような花の生気を感じていたら衝動がむくむく湧いてきて花を強く引っ張った。ぶち、と嫌な衝撃が指に伝わって木の全体が揺れ、小さな花弁が手に残る。幼子のように木を揺らして花をむしり続けた。涙があふれてきたから踵を返して紫陽花を離れて歩き続けた。日が変わったこともわからないままに朝が来て、否応なしの朝日に視界がくらくらする。ポケットに手をつっこんだら萎びて褐色を帯びた水色の花びらがいっぱい入っていた。手のひらに乗せたら、もうつめたい生気を湛えてはいなかった。