彼女について(私が知らない事)

前腕に鋭い傷跡が何本も走っていて、猫にひっかかかれたのと呟きながら長袖を伸ばす姿が心許なかった。すきばさみを通していないであろう固くてまっすぐな髪は太いゴムでひとつにくくられていた。くぐもって低く響く声も、大きく瞠られた色素の薄い瞳も、水の上を滑るようなピアノの音色も、妙に艶めかしくて少し苦手だった。ここにはうんざりだからどこか遠くに行こうよとこちらから誘ったものの、景色は単調で話も弾まないためすぐに退屈してしまった。あの長い指で切符を財布にしまったのち、年寄りめいた趣味だと言いながら、車窓越しにゆったりと進む風景に向かってデジカメのシャッターを切っていた。行儀よく収まった空や建物はきっとなんの変哲もない写真として現像されたのだろう。流行りものを着ない彼女は、間に合わせで入った古ぼけた喫茶店にとてもよく馴染んでいた。いつからか部屋に閉じこもりヒステリックな言動が多くなったと聞いた。彼女の親友は羊のように大人しくて利口だったし、妹は優等生の鑑だった。だんだんとあの旅行とも言えない遠出のことは忘れてしまった。離れて暮らすようになってから一度だけ彼女を見かけた。当時よりしっかりと立っているように見えた。

 

 

もう一度彼女のことを思い出してみたい。その人は中指が際立って長く、爪はアーモンド型に伸びうつくしい形をしていた。髪の色は緑がかった茶褐色で、腕を走る何本もの傷は、刃物を立ててさっと引いた流跡だったのだ。ピアノの前に座ればいつもショパンの幻想即興曲をさわりだけなぞってすぐに椅子を立ち、どこか苦い表情を浮かべてはにかんでいた。彼女の顔つきを思い出そうとすればするほど白い靄がかかって流行りの女優へすりかわっていく。彼女の指の長さだって本当はちっとも覚えていない。髪の色も瞳の色も、思い起こそうと目をつぶるごとにパレットの隣り合う色がぐちゃぐちゃにまざりあう。名前だって朧げだ。あの旅ともいえない遠出は本当の出来事だったのだろうか。彼女は果たして実在していたのだろうか。わたしがつくりだした虚構の人物だったのだとしたら? 彼女と行ったあの場所こそがまさに「ここではないどこか」だったのだとしたら? 記憶と想像はいともたやすく混在し、透明な糸口を辿るようにこうやって書いてみれば、あのときの彼女が存在していたことをつよく確かめられるような気がして、同時に彼女についてはほとんど全部を知らないのだと気づく、彼女の未知の部分をわからないまま書こうとしてみることはどこにもいない女の子をつくりだすようで、わたしの中に潜って他者を見つけていくことだ。わたしの中にいる他者を見つけてわたしを掴みたい。いま目の前に現前する彼らはいつだって誰でもよかった。彼の視線の先で動いたり、彼の心の中に棲みついている彼女こそ、わたしが本当に希求する対象だった。わたしの中に存在し得る他者として彼女たちをずっと求めていた。他者は未知の領域をもってわたしを執拗にゆさぶり続け、その衝撃をもってわたしがつくりあげられていく。moiの存在を放り出して強い刺激と快楽を求め続ける動物のような彼らがわたしを揺り動かしたわけでは—こんなふうにすべてを否定するのは愚かだとも思うけれどそれでもなおこう言おう—なかったのだ。