固有性についての覚書

年越しの1時間くらい前に電話がかかってきて、出たらYだった。声を聞くのはいつぶりかよくわからなかった。少し話して、お互い落ち着いた頃に飲みに行く約束をして、電話を切った。

人の固有性のようなことについて。
その人がその人でなくちゃいけない理由はどこからくるんだろう。

自分が好意を向けられたとき、その理由は私が持つ属性だとかステータスなのだと思っていた。映画や本の話ができるから、話を聞くのが上手いから、顔や声などの身体的特徴が好ましいから、など。そういった属性がその人にとって必要なくなれば私は忘れられてしまっていい。そういうふうに考える方が合理的だと思っていたし、納得もしていたし、上手くいかなかったときのために初めから見せるのはここまでというボーダーラインを持っていたと思う(上手く機能していたかは別として)。

けれど、例えばYと似通った声と顔つきで同じような趣味の人が現れたとして、そのとき私はYを忘れてしまえるだろうか。YはYとして私の中にしっかりと根を張っている。だから別の人で代替できるわけがない。その根づきを構成するものは一体なんなのか。経年といったらそれまでだけど、その中で何があったのか。Yと知り合ってからの10年間、大したことは何もなかったようで思い出す場面はたくさんあって、レイトショーでゴーン・ガール観た帰りにコンビニの駐車場で気まずくなったときとか、町田康借りて読んだとか、よせばいいのに私がつっかかるから不毛な喧嘩になったこととか、高円寺で安い酒を散々飲んだこととか。私からずっと連絡しなかったのだって後ろめたい出来事があったからだった、でもこのことまで考えると収集つかないから都合よく忘れる。全部綺麗な思い出とかじゃなくてただそういうことがあったってだけだし、Yのことなんかいつも考えてるわけじゃないし会ったときもわざわざ思い出話しなくたっていいし。でもあったことは覚えてる。

私の中でYが固有性を持つ理由はそういった昔の出来事だけでもない気がする。例えばYの口調だとか茶化すタイミングとか間の取り方とか煙草の吸い方とか、出来事の周辺を取り巻く言語以外の情報というか、そういったものが全部引っくるめられて固有性を構成しているような気もする。その人を取り巻く微細で捉えどころのないその人らしさが誰にでもあって、私はいつのまにかそれらを手繰り寄せてしまう、当たり前のようにそうしている。その手繰り寄せた集積が相手の固有性であり、その人との関係として自分の中に根づいていくのかもしれない。

私はYにとって代替可能な存在だろうだと思っていたし、私がいなくなっても彼が困ることはないだろうと高を括っていた。けれど、Yが電話をしてきたのはきっと私の集積のようなものが彼の中にもあったからで、どんなにどうでもいいことであれ私に話すことによって意味をもつ何かがあったからなのだと思う。10年も経ってしまったのだから、Yの中にも少なからず私の根づきがあるのだろうと思う。

私を透明にしないでほしいと思っていたけれど、自分を透明にしていたのは自分だった。その人と会っているときまるで私の中だけにその人との関係が集積されていって、相手の中には私の存在は何も残らないものと思い込んでいた。けれど、私が自覚していない自分の口癖とか、自分では忘れてしまった言動とか、そういったものがYだけじゃなくて別の誰かの中にも集積されているのかもしれない。そのことは考え出すと怖くもあり喜ばしいことなのかもしれないけれど、ただそういう事実がきっとあるのは自覚しておいてもいい気がする。

そのうちYに会ったらきっと自分の記憶に裏切られるだろう。Yの声は少し大人びていた。去年は誰にとっても散々な一年だったはずなのだから、Yもきついことをたくさん経験しただろうし、取り巻く環境の中で変わっていっただろう。私の中でYの固有性を構成していた何かが今の彼には残っていないかもしれない。幻滅することもあるかもしれない。それでも一度私の中に根づいたYの固有性はもう別の何にも代替できない。同じことをそのままそっくり反転させて、Yから見た私として置き換えることもできるだろう。人と知り合って時間が経つってこういうこと。私の固有性は、私自身の中だけじゃなくて、誰かの中にも根を張っていて、時間の経過や環境の変化につれて流動するということ。