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変化というものは物事の内部からゆるやかにわきおこる進行なのであり、例えば戦争に敗れたときのようにすべてが翻ることはほぼ起こらないのだろうと考える一日。後者であればわかりやすい—「今日から変わりました」というようないわば公的な報告のようなものを受け取って対応してゆけば済むため。そうではないのだから、変わってゆくことに敏くいなければならないのだと思う。ただ自分の身体や思考を大きな(ように見せかける)流れに漫然と捧げていると、研ぎ澄ますべき真髄のような部分がたちまち錆びついてしまう。両立する術はあるのだろうか。大きな流れに自分を預けることには耐えられないが、逆らうことにエネルギーを割き続けるわけにもいかない。そういったことを改めて考えるための日記。コミュニティに帰属している自分とどこにも属さない自分がそのときどきに割合を変えながら立ち現れる。前者の割合が多いときは社会に取り込まれているようで、不快と言ってしまっていい感覚。後者が強く出ているときはこのうえなく自由な気持ちだけれど、あまり現実的ではない、世界の中に身を置くことができない夢物語を見ているような気もする。後者のまま身を置ける環境を探し続けるのか、現実と折り合いながらゆらぎ続けるのか。
 
人と会うこと、会って話すこと、場所を共有することの意味をよく考える。今月も会えないねとメッセージを送りながら私はなぜこの人に会いたいのだろうかと自問する。関係性というものは自覚していたよりもさまざまなものに媒介されて成り立っていたのだと気づく—私はきみと会うことが、少しだるくてけっこう好きだった。薄暗い照明と不釣り合いなポップスがかかる喫茶店インヒアレント・ヴァイスのあらすじをふたりして思い出せなくて頭を抱えたこと、シーシャを吸いながら町田康の本を勧めあったこと、ケーキを頬張りながら円城塔の話をぽつりぽつりと聞いたこと、安いレモンサワーのジョッキで手を冷やしながらiPhoneでインディーズバンドの曲を流してもらったこと—そういったことが好きだったのだけれど、目の前にいたきみって一体誰だったんだろう。私が見ていたはずのかれらには必ず靄がかかっていて、思い出せない。なんとなく思い出せないまま時間が経って、また会いたいと思うのはなぜだろう。媒介する場所もなくなって、音楽も物語も色を失ってしまったとき、きみはわたしに会ってくれるだろうか。すべてのものが崩れ去った世界でわたしたちは何を話すのだろう。
 
ヴェルヴェットアンダーグラウンドばかり聴いていた。ふつふつと沸く鍋の中、鰯の切り身の上で梅がほどけるように煮崩れていって、私は思っていたよりずっと世界に愛されていたのだ。この先どうしていこうかと思った。