憂鬱な楽園

引っ越しが好きで、段ボールが積み上がった部屋に白い花なんかを買ってきて花瓶に生けて眺めたり、アルバムをめくって考え事をするのが好きだ。住む場所を変えることができるというのは大人になってから手に入れた贅沢な自由のひとつであるように思う。次の引っ越しでは、ととりとめのない考えを巡らせる。わたしはまたバラ色の日々を聴いて、花を生けて、食器を手放すんだろう。大きい川と図書館の近くに住みたい。
 
その街では桜桃がよく採れると知ってはいたけれど、わたしはさくらんぼ畑も桜桃の花も見たことがない。毎日家から車を走らせてその街にいく人のことを考える。ゆるやかに放物線を描いて落ちていくボールのように思い出す。話すことは話さずにいる人生の死を意味する、だから人間はゆれる、沈黙と言葉の間を。白黒の映画で見たそういった台詞と一緒に思い出しながら、間延びした会話だけを続ける。
 
ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』を読んだ。話す主体が移り変わってひとつの物語を為すその文章からは、妙な正直さと、心もとなさを感じた。わたしがわたしだと思っている自己みたいなものはときにひどく頼りなく、あまりにも身近な他者に依拠しているのだ、というようなことをぼんやり思う。記憶は都市に落ちてゆくし、自己は他者に植えつけられるのかもしれない。だとしたら。ひとりでいるときは人と話すときに着る殻を脱ぐ必要がある。誰かが見たってそれが何?って思いたいけど思っていていいんだろうか、という迷いも本当はちょっとあるし。
 
映画は光による芸術だ、というような言説を、いろんなところで目にしたり聞いたりしていた。今日PCの画面で眺めていた映画の中に、田んぼに投げられた鍵を手元の懐中電灯で一生懸命探すシーンがあった。後景に広がる夜空と道の境目には、街灯の灯りが点々と歪な横線を描いて並んでいて、大きくてまっくらな布を一直線に縫い付けた線のように見える。わたしはこのシーンがすごく好きだ。