起点

彼女は昼と夜の区別がつかなくなったらしい。一日中とろとろと眠っては目覚めを繰り返す。たとえ日が落ちかかっていようとも起き抜けこそが彼女の朝だ。「こんな早くにどうしたの」と、一日に何回も同居人に声をかけるという。
 
そんなふうに暮らす日々はどれほど耽美だろうかと思う。時間さえ蕩けてしまって、植物が這う窓からは薄暗く光が差し込んで、夜を能動的に待つことすらしなくていいのだ。ただ穏やかに笑って、当たり前のようにいがみ合って、ゆるやかに忍び寄る何かを待ち受けるということ。
 
離れた土地でわたしは毎日彼女の色彩に囲まれて、これからも変わらず暮らすのだろう。壁や鞄の中にそっとあるだけでなく、ほかのところに散りばめている自分で選んだ色や柄でさえ、もとから彼女のものだったのかもしれない。色はただ綺麗に取り合わせられてそこにあるだけで、本当はあたたかくもつめたくもない。とにかくわたしの家に置かれればそっとあってくれるだけなのだ。じっとりとしたあの湿度はわたしが見出しすぎてしまっただけだったのかもしれない。
 
ルーツなんてものを自分でつかみ取っていいのならばこうやって身の回りに置いているこまごました小奇麗な色たちを選びたい。その選択の中には懺悔も悔恨も、感謝だって含めるつもりはないけれど、そんなにクリーンな行為ではないから、窓際にうずたかく積まれた本を読み終えたらまた書きたい。
 
—2017/7/3

 

 
このときの行為者である彼女はもうこの世にはいない。彼は媒介者だった。ずっと媒介者としてその場所の情報を届けてくれていた彼がついさっきの電話で突如として行為者になった。いや、たったさっきから「彼が行為者である」という認識が私の中で始まったというべきか。彼は行為者である自分のことすら淡々と媒介した。ちっとも声色は乱れず、むしろ僅かに動揺したのは私が泣き出したからだったようで、かえってこちらが慰められているようだった。混乱している。泣きじゃくりながらMac Book立ち上げてこれを書いている。他にとるべき行動があるはずなのに書くしかできない自分の状況が痛烈に突き刺さる。彼がそうなったことを真っ先に話したい人が思い浮かばず、そのことがぽかんと穴が空いたようで、でも、だから書かずにはいられない。当たり前のようにいがみ合って暮らすその場所での時間は続いていることはわかっていた。いつまでも私の記憶のままではなく、場所も人も老いていくことはわかっていた。ずっと見て見ぬふりをして、別の場所に意識を向け続けて、そうやって自分ひとりの中でなんとか折り合いをつけようとしていた。いつかこういうことが起こるだろうと確信めいた憶測も少なからず抱いていたけれど、ないことにしていた。私の目の前で起こっていないのだから。出来事は私の知らない間にゆるやかに進む。私にとっては認識した時点からそのことが始まるのに。そういった起点のずれを何度経験しても子供のように不思議な気持ちを感じる。私は彼女のときを同じことを繰り返すのだろうか。彼のことを媒介してくれる人はいない。どうしたらいいだろうか。出来事を受け入れる状態へ向かっていくしかない。そこへ自分を向かわせるしかない。けれど、私はあまりにも恥の多い行動をとりすぎたし、昔から今までとても人には見せられない感情ばかりだ。それでも彼は許してくれていることが、私はとても悲しく、恥じ入るような気持ちになり、素直に感謝することすらできない。本当は、許されるなら、10歳の自分に戻って、もう一度やり直したい。