「個別」で「固有」だった身体がそうではなくなって

流行りものをリアルタイムで享受することがあまり得意でないのは、こんなに良いと言われているものをちっとも良いと思えなかったらどうしようと世界から疎外されることへの不安を感じるからだ。ドライブ・マイ・カーもそんな怖さがあってなかなか腰が上がらなかったのだけれど、息を詰めて食い入るように観て、一日中頭を離れなかった。ドライブ・マイ・カーを観たわたしのことを書こう。
 
 
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「言葉の身体性」ということについてぼんやりと思いをめぐらせていた。言葉のうちでも人が発する声というべきか。濱口竜介が大事にしているという本読みのシーンを咀嚼して、あれはあの映画の中で成り立つユートピアの原点を垣間見るシーンだったのかもしれない。言葉は身体を媒介としたメディアであるのだけれど、メディアである以前に身体と分かつことができない状態がある。そういったことをまざまざと考えざるを得ないユートピアがあの映画だった。チェーホフのテキストを身体化して、身体化したテキストを表現の起点にすること。家福が持つ三重の身体性—ワーニャ、家福、西島秀俊、おそらくその三重の精神が「折り重なって」(一体化していたとはあえて言わない)言葉と身体のうちに存在していたのだと思う。人が演じるときに何が起きているのか、結局わからなくて、今もこうして書いてみてやっと糸口がうっすら見えたような気もするけれど、結局わからない。個別で固有の身体のうちに存在する感情を言葉は媒介するのだけれど、そうなると「個別」で「固有」だった身体がそうではなくなって、他者が発した言葉で自分が変容する。自分が発した言葉で自分が変容する。関係が生じて、関係が変容する。そうなれば身体の個別性も固有性も揺らぐけれど、その状態になるためには身体は個別で固有でなくてはならない。身体のうちに重層性を宿すには、身体が個別で固有でなくてはならない。
 
そういったことが、高槻がいったあの台詞なのかもしれない—本当に他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかないんです。
 
家福とみさきが雪一面の北海道で音について話す、本当は謎なんて何もなくてただそういう人だったんじゃないんですか。今になって気づいた、傷ついていた。あのシーンでふたりの言葉も目線も交わることはなく、人と人の思考はすべてが交わることなどあり得ない、その状態が本当に苦しくて痛くてつらいほどすべてを詰めこんだシーンだと思った。それでも抱きしめることができるというのがどうにもならないくらいに生きていくことだと思った。だから最後のソーニャの台詞を手話で見て、人は言葉で「語りかける」という行為を対峙ではなく抱擁のうちに行える、それは決して強い力で取りこむこととは違う、身体は個別で固有だけれど、その前提に立って言葉を使ってまっすぐに語りかけることができる、そういったことが人には理解できないくらいの苦しさを抱えて生きることだと思った。
 
 
主体的に選択する喪失、受難としての喪失、とかそういうこともさっきまで頭の中に朧にあったのだけれど、それについては今日は考えないことにする。