ところで

顔も上げられないような日々を過ごしていた。やっと息をつくと色とりどりの花が芽吹いていて道が眩しい。毎年楽しみに待っていた沈丁花は盛りを過ぎて褐色にくすんでいる鉢すらあった。

脱水寸前の状態で水にありついたような勢いで映画を観て本を読んでいた。アピチャッポンの新作、ロベール・ブレッソンの硬質な映像、ベルトルッチのドリーマーズ、マーガレット・アトウッド尾崎翠、そしてオーシャン・ヴオン。一体何が私を生かしているんだろう。

情報や義務のようなものに自分が埋没していくようだ、という感覚があった。それと同時に、物事の表面しか、正解とされる面しか見てはいけないのだという感覚に陥っていた。事物には表と裏があり、裏面――メルロ=ポンティの言葉を借りれば服の裏地のような――を覗きこめば無限に言葉がひしめいている。ある瞬間にふと表から裏へと世界が反転する。そうすると数多の意味がわっと表出してひとつひとつの断片が散らばる。まるで腹部を開かれた裸体から夥しい内臓があふれ出すように。ぞっとするほど膨大な観念の堆積、そのような艶めかしい可能性が満ちている。それらひとつひとつの断片を拾い上げて丹念に積み上げると、言葉は連なって相互に作用して、それが文章になるのだと。世界の断片をどのように作用させてどのように息づかせるか。というようなことをつらつら考えていたけれど、私は本当の意味でまだ言葉を獲得できていないのかもしれない。表と裏を行き来するのに疲れて、私は書くのが怖い。でも今やっと息ができている。日記を書くときに私は私を生き直していると、書くことが自分を創造するのだと、スーザン・ソンタグがそう言っていた。埋没してしまった私をもう一度生き直す。ばらばらに散らばった断片の中に埋もれた自分の輪郭を切り出すような? 大きな穴の中に突き飛ばされて土砂を被せられた、その暗い地下から這い出して肺いっぱいに酸素を吸い込むような? その行為の流跡がこれ。どんなに矮小なものであっても私の意思に基づいて何かの意味を構築できる、その事実を胸いっぱいに吸い込んで、ひりひりするような切実さと、深い安らぎと、重たく冷たい寂しさで打ちのめされそうになって、私はその感覚がとても嬉しい。私は私だけでたった一人だから書くことができる。でも、世界に混在する暴力や死の背景には、誰か一人の(あるいはたくさんの一人たちの)意思が、私の意思と同じように存在している。そのことを考えると耳を塞いで叫び出したくなる。暴力や権力は熱くどろどろした非情さで私の中に流れ込み、裏面で息づく無数の意味を一瞬で溶かして灰にする。そのことがとてつもなく怖い。パブリックスペースにはびこる大文字の言葉を何も考えずに咀嚼して飲み込まないで。ベッドの中で目を閉じて書く私のためだけの言葉を信じさせて、お願いだから。