ちょっとの雨ならがまん

酩酊して神田にいた。多分。惰性で噛んでいたガムが血の味にまみれていくのがなんとなく半分だけ。見慣れたコンビニの無機質な電飾とか歩く歩幅とか、全部半分だけ見ていた。彼と私は確かに同じものを見ながら話していたのに彼女はちっともわからないと繰り返していた。不思議だった。あのとき確かにそれを見ていた。それがなんだったのかわからない。彼の肌がだんだん血の色を帯びて瞳が潤んでいくのを見ていた。
 
人が泣きだす瞬間は綺麗。あ、泣くのかなこの人、と思いながら、白目の縁が透明に膨らんでいって、笑い顔のくちびると眉間がちょっと歪んで涙がこぼれる、その瞬間はものすごい奇跡に立ち会っているよう。目が離せなくなる。つつけば溢れるくらいにぎりぎりに張力した質量がその人の中に存在していたことに初めて気づく。そのときになってようやくその人をほんの少し知覚できたような気になる。あの人が泣いているところはとても綺麗で、頬杖ついてずっと見ていた。彼は耐えられなくなったのか茶化していたけれど。私はあの人が泣いているのをいつまでも見ていたくて黙ってた。
 
 
このアパートが解体された。部屋の中の引き戸やドアが運び出され、ものすごい音を響かせながら外壁が壊され、瓦礫の中に柱がくっきりと切り出されるのを日ごと通りながら見ていた。最後には階段だけが残されて、行き場が崩れ落ちた階段はかつて人を運んでいたのだ。誰かの部屋へ向かうはずむ心を。知覚されることで存在していた建物を見届けたいと思った。崩されてゆく建物からは甘く湿っぽい匂いが立ちのぼり、古い文庫本によく似ている。工事現場には小さな目覚まし時計と缶コーヒーが置いてある。