嘔吐、盥、瞼、受難

夢見が悪い朝は決まって貧血を起こして目の奥が真っ暗になりながらやっとの思いでベッドから起き出すのだけれどその日一日は咀嚼しても上がってくる繊維質のような夢の残骸がぐずぐずと胃の中に残って気持ちが悪い。夢の中でわたしは誰もいない教室の隅に立ち、窓から見える真っ青な空をぐんぐんと吸い込むように膨らむカーテンを眺めながらゆっくりと喉の奥に指を差し入れ、舌の奥のざらつきや収縮する喉奥を指の腹でなぞったのちに数回指を曲げて嘔吐を試みながら目の端から涙を流していた。

暗い浴室で赤く染まった盥を覗きこむ。服についた血は丹念に揉み洗いをしなければならなくて、真っ白い洗剤の泡と真っ赤な血が入り混じって透明な水に流されて消えてなくなっていくのを見ているとまるで儀式めいたような行為にも思えてくる。鼻孔の奥で洗剤の清潔な匂いとつんとつく鉄の匂いが混じり合いながらだんだんと意識の奥底に棲みついていくようだった。清らかさに怯えるように執拗に布をこすり続ければ手の皮膚が瞬く間にかさついていくのがわかる。喉の奥にはまだ圧迫感があった。口を開けば嗚咽が漏れそうだったから奥歯を強く噛みしめた。

その人が立ち上がり歩きだすまでうつむいていたら、鈍く光るまで丁寧に磨かれた靴の動きばかりが目についてまるで物珍しい生き物に見えた。その人がこちらに背を向けて歩き出せば靴底の背に桜の花びらが貼りついていた。満開の桜並木をちらりと見上げることもせず瞬時に朽ち始める花びらを踏みしめながら足早に通り過ぎて来たのだろうか。想像するとどうしようもなく寂しくて心臓が軋むようだった。せわしないその人の足音をやがて喧噪がかき消すまで下を向いていた。桜の花弁は瞼の裏側の色をしているとふと思った。

濱口竜介のPASSIONを観た。それはとんでもなく面白くて見たことのないことばかりが起こって2時間ずっと胸がどきどきしていた。人と人が関わる中で立ち現れる事象をひとつひとつ解明するように、今まで行ったことのない領域をめくるめく見せてくれるその過程はひたすらに言葉と言葉の応酬と視線のやりとり。意思と行動と感情は全部ばらばらに違うものでいながら一緒くたになって自分の身体の中に存在している。自分の中にあるばらばらのそれらが何らかの形で他人に対して発現されたならそれは他人にとっての受難。自分が被った受難は他人の意思や感情や欲望に基づく行為だった。私が行為してきたことはどのような形で誰かの受難になったのだろうか。そして私が受難した行為の裏にはどのようなその人のいきさつがあった? 知ろうとしていたようでわからないままにしていたのは自分を手放せなかったからだ。自分を受容することは、同時にしがみついていた自分を手放すことでもあり、そうしたら他人をちゃんと見られるようになるのかもしれない。あと少しでわかりそうなのにあと少しだけがわからなくて、だからずっとしがみついて捨てられないでいる、そういう自分を一度手放せば胸のつかえもなくなって目の前の人を見られるようになるだろうか。