使い古された喜び

週末、高田馬場でオールド・ジョイを観た。隣に座った人は申し訳ありませんと言いながら開始直前に出て行って、二度と戻らなかった。それから人同士の分断について考えていた。ずっと一緒にはいられない。それはどうして? 悲しみは使い古された喜びって本当だろうか。すべての感情は地続きなのにあの人とわたしの間には壁がある。

 

近頃は日記を読むのが楽しい。先月は富士日記を読んでいた。今月は、少し開いて眺めて閉じる、を繰り返して、スーザン・ソンタグの日記を読んでいる。二年ほどかけて読み続けてやっと三冊目も半ばになった。他者に開かれることのない言葉が綴られたノートを出勤ラッシュの山手線で読み耽っていると、日記は不思議な媒体だとつくづく思う。ソンタグの日記の中で、言葉のもつ伝達の機能は「過去の自分—現在の自分—未来の自分」という三者の間で働く。そして、現在の自分を定義するため、時には現在以降の自分を想像するための道具として言葉が使われる。彼女が彼女自身だけのために書いた言葉はひりひりと鋭くて、飲み込みきれないくらい熱くて、甘やかに流動する。書くこと、考えること、人を愛すること、母に対して考えてきたこと、そういったことが事細かに書き記されたされたその日記から引用したい箇所がたくさんある。けれど、彼女が彼女のためだけに綴った言葉を借りて考えるわけにはいかないような気がしている。

 

ノートに日記をつける習慣が続いてひと月以上が経った。わたしは人の名前を日記に書くことができない。その人とかあの人だとか、彼女・彼というように、誰だかわからない指示詞や代名詞として隠してしまう。わたしにとってはたった一人のその人を、たった一人なのに、たくさんいるうちから無作為に選んだ名前も持たない誰かに変えてしまう。誰にも見せない場所にひっそりと誰かの名前を書くことはその人に手垢をつける行為だ。自分の心の中だけでその人が近づいたような錯覚を覚える。まるでこっそりと後をつけて私生活を把握するような後ろめたさがある。でも本当はそうしたい。あの人の名前を日記に書きたい。あの人をたった一人の人としてわたしの中に棲まわせたい。そんなふうに思う自分が穢らわしくて嫌になる。いつか名前を日記に書いたなら、その人を所有したい気持ちが膨らんで、そのうち爆発してしまうんじゃないかと思う。