つめたさ

日が暮れるころにその街に着けば、初夏に似つかわしくもない涼しい風が吹く。仕事帰りの格好のまま捲っていた袖を伸ばして手首のボタンをはめてもなお夕暮れの冷めた空気が腕にまとわりつくように通り抜けた。商店街にはいくつもの飲み屋に明かりが灯る。早足で歩きながらよそよそしい生活の匂いを吸いこむ。すると奇妙な懐かしさがこみあげて、彼女のことを思い出す。

その街には小さな映画館があり、踏切を渡って細く曲がりくねった道を進めば窓口へと続く階段がぼんやりと白く浮かび上がる。あのときそこで彼女と観たのはとある家族の軋轢を映した短い映画だった。画面の色彩は鮮やかすぎるほどで、フランス語で交わされる暴言が耳をつんざいた。若い女優の怒気に満ちた灰青色の瞳と対照的に、前歯の隙間があどけなく見えることがやけに印象に残った。映画館を出ればわたしはすっかり参ってしまい、喫茶店の古びたうぐいす色の革張り椅子に腰掛けて細いスプーンをつまみコーヒーカップをかきまわしていた。どうだったかと映画の感想を尋ねると、彼女は一瞬だけ困った目つきを窓の外へやり、それから紅茶のカップを両手で包み込むと少し笑って言った。

あたしは人んちのお勝手には興味がないみたい。

わたしがそのあと何を言ったのかはよく覚えていない。ただそのときの彼女の姿はあまりにも頼りなく、むき出しのまま世界に晒されて今にもこぼれ落ちそうに見えた。わたしの言葉が彼女の輪郭を定めるのを待っているのではないか。ふとそのように思い、すっと背筋に冷たいものが走った。

またこの街に来て、今わたしのシャツの中を吹き抜ける風はあのときの薄ら冷たいものを思い起こさせるのだ。逃げ出したいような心持ちで白い階段を登り、その映画館であの日とは違う映画を観る。スクリーンに映る俳優の長い睫毛と困り果てたような笑い顔はあたたかな幸福感をわたしにもたらしながら、上目遣いで紅茶を啜る彼女の記憶を上塗りするようだった。何かを委ねるような彼女のあの目つきを思い出すと胸の奥底が粟立つ。流行る気持ちをかき消すように夜道を急いだ。喫茶店には寄らずにその街を後にした。