薬と金属

金属と薬品と煙が混ざった匂いがした。無機質なのに人肌のぬくさがある匂い。よく知っている。知っているつもりになっている。今でも。今になったから。何も知らなかったのに、出来事は時間が経つほどに風にさらされて角が取れ、隙間は埋まってゆく。気がつかないうちに思い出の完成形が仕立てられてゆく。できあがった記憶はぬるぬると移動してどこかへ送り出され、しばらくすれば見えなくなる。ぽっかりと空いたそこに新しい現在が入りこんで知らぬ間に始まっている。渦中にある今の中でめまぐるしく歩き回り、喋り、何かを思い、その繰り返し。どこかにしまいこまれた記憶を引きずり出すのは今が続くから。何度も何度も思い出し続けていると現在は止まってしまうよう、静止した今が手の内から離れてどこか遠くへ吹き飛んでしまいそうに思うけれど、それよりもずっとはっきりと現前するのは、過去がきちんと手を離れていること。どんなに思い出が手触りとぬくさを湛えていてもそれはかつて存在した事実があるからにすぎなくて、そのことが終わっていれば、そっと手を離れて、現在がやってくる。現在の中でめまぐるしく動くそれらは今存在している、すぐに手に取ってやわらかさやあたたかさを感じることができなくても、目の前のことは今存在している。あの人によく似たその人はあの人ではない。その人がすこし顔を傾けてこちらを見据えればあの人にはちっとも似ていない、そのことに愕然と気づく瞬間に、今の続きが始まる。現在は何度も再生されて、そのたびに終わりながら、新しく始まりながら、不可逆に続いてゆく。