天使

市井の人がどんなふうなことを思いながら暮らしているのか知りたいと、最近そういったことを漠然と思うようになった。難解な思考とか世の中への提言とかまっすぐな信念とかそういう、大きくて揺るぎないものも大事だけれど、今わたしが興味があるのはそういうことでもなくて、わざわざ言葉にするでもないような、生活の中からこぼれて立ち消えていくような、一瞬頭をよぎる思いつきや、当たり前にはっきりして柔らかく口をついて出た言葉とか、忘れたころにやってくる天使のようなそういうもの。生活の大半を支えるのはきっとそういったもの。だからってわけでもないけれど、無性に観たくなって『ヴァンダの部屋』借りてきて、DVDプレイヤーに入れて三分の一のところまで再生した。『東京の生活史』がずっと気になっているけれど、あのボリュームをずっしり持つことを想像してまだ及び腰。

あなたの髪が長かったころを思い出せないと言われた。自分でももう思い出せません、と笑いながら返したけれど、次の瞬間に、数日前にはっきりと思い出した、そのことを思い出した。枕に散らばるわたしのものではない長い髪。少しだけ腕を伸ばしてその人の頭を撫でていると、湯に浸かる髪がふわふわと質量を失う様子とか、ふりむいたときに肩や胸元に落ちる髪の感触や、首を覆う髪のあたたかさ、そういったものをはっきり思い出した。何かが存在したということはわたしがそのものを知覚していたということだ。そういった感覚があって、その瞬間だけ、わたしの記憶とその人の髪がまるきり同じものになってゆくようで、わたしの長い髪はもうないのに、わたしがただ思い出しているだけなのに、今わたしのものみたいにものすごく近くにあるその人の長い髪はその人のものでわたしのものではない、今はもう存在しないわたしの過去なんて今隣にいるその人と関係がないのに、目を瞑ったら本当に一緒になってしまいそうで、全部の区別がなくなってゆきそう。回想したことを回想した、それを回想しながら今書いていて、きっといつかこの文章を読むときには、思い出したことを思い出して、思い出しながら書いたことを思い出す。思い出した瞬間に過去が終わったことになる、過去の回想が再生されると今が始まってしまう、思い出すことを続けて、時間はとめどなく終了と開始を繰り返す、閉じることのない円環のように。