ハートに火をつけて

浴槽の中で今までのことを思い出していた、今まであったこと、いつのことか、誰のことかもわからないようなこと、あたしはそのときにどう思っていたんだっけ、何が起こったんだっけ、思い出すほどにわからなくなってゆく、本当にあったことと、本当はなかったことが、どろどろになって蕩けてゆく、ここはあたたかくて、明るくて、甘い匂いがして、安全な場所。

 

耳をゆっくりと撫でる、はっきりと熱をもち、じんじんと疼くように痛み、指で触れたそこから記憶と感覚が融解してゆくようで、執拗に撫で続ける。あたしは身体の奥底がどんどん狭くなっていく、行き先はひとつだけ、その瞬間に向かってゆく、あんたのことしか考えられなくなる、あんたが物質として今ここに存在していることだけ、そのことで頭がいっぱい、あんたが嘘をついていても、あたしが隠し事をしていても、どうしたってあんたのことしか考えられなくなってしまう、譫言を繰り返しながら、ただ向かうことしかできない、その瞬間には、道で見かけた白い山茶花と、なじるような視線と、怒鳴り声、ベージュのパンプスのストラップのボタンが止められない、あんたが啜り泣きながらごめんと言った、赤く腫れ上がった唇、夜中の田んぼ道、上擦った声で女が媚びる、茶褐色の血液が初めて下着に付着した朝、真冬の寒さが顔に刺さって痛い、死んだ毛虫が散らばったアスファルト、袖口がほつれたセーター、雨蛙をつついて殺した、ワンピースの隙間からあんたの手が滑り込んでくる、夜中に隣で寝ていたあの子が起きて泣き出した、色とりどりの刺繍糸、川に落ちて水を飲み込んで溺れてしまう、犬の白い毛並み、石鹸と煙草の匂い、赤くて速かった車、髪留めを落とした、その瞬間にはそれらすべてがあたしの中で一気に存在する。あたしはとても気持ちがよくて、苦しくて、狭くて、あんたの目しか見えない、あんたがあたしのすべてを見ていることが恐ろしくて、恥ずかしくて、深く安心する。その瞬間の到来が達成されると生まれたばかりの赤ん坊のように泣き出してしまう。あたしは大きな声を上げていつまでも泣き続ける。その瞬間はきっとあたしが産まれ落ちたときによく似ているのだ、暗くてあたたかな胎盤から、狭くて苦しい産道を通り抜けて、ねばねばした体液と血液に包まれたまま産み落とされる、瞼を開く前に、真っ先に口を大きくあけて空気を吸う、同時にあたしは世界を知覚してあたし自身になる、あたし自身になったことの喜びと、これから世界と対峙し続けなければいけない苦行を背負ってしまった絶望、無力なまま世界と立ち向かう恐怖によって泣き続ける。あんたはあたしを赤ん坊にしてしまう、あんたはあたしを殺してしまう、あんたは嘘をつき続けたままどこまでも真剣、あたしのすべてを掌握して、狭いところに連れていってしまう。その瞬間が達成されるとあたしは生まれ直す、その瞬間からあたしはあたしを生き直すことができる、何度もあんたによって殺されて、何度も生き直していく。