Nocturne Op.9 No.1

Chopin: Nocturne No.1 In B Flat Minor, Op.9 No.1 - YouTube

ショパンでいちばん好きなこの曲のはじまりは6つの単音がなめらかに連なったのちに7つ目の音から深い和音になるのだけれど、その瞬間に頭の中が真っ白になって胸がつかえて息ができなくなる。短調で進むこの曲の中で時折メジャーコードが響くとまるで光が筋になって差すようで、その視覚的なイメージがさらにせつなさをひきたてているようで—そういったゆらぎの機微を聴き続けていると、言語や出来事といった世界に存在する何ものも介さずに胸のなかにある感情を素手で鷲掴みにされているような気分になって泣きだしそうになる。私は頻繁に泣くのだけれど大概は何か原因があるからで、悲しみに直接訴求するこの感覚はいったいどういったものに分類されるのだろう? 聴くたびに頭が真っ白になる曲はもう一曲だけあって、でもそれは「泣きたくなるほどノスタルジックになりたい」という歌い出しにつられて数年前の暮らしぶりを甘美な苦しさをもって思い出すからであり、出来事と経験にしっかりと紐づいているのだ。 ショパンは違う。記憶や経験とは連なることのないかなしみを、引きずり出すのではなく当たり前のように生のまま取り出してくる。 12歳の冬、学校から帰ると狭く散らかった部屋で—母親の散乱した荷物は私の管理できる領域ではなかった—頭から毛布を被り、暖まるまで時間のかかるピンク色の石油ストーブの電源を入れ、小さなシルバーのiPodにイヤホンをさしこんでショパンを聴き続けた。持っていた音源はフジコ・ヘミングの演奏だったから、強めのアタック音と時折まじるミスタッチに演者の人格を垣間見るような心持ちもしていた。 今の私がこの曲を聴くことによって取り出されてしまう言語で表すことのできない悲しみ、経験とは紐づかない悲しみは、もしかするとこの冬に醸成されたのだろうか?子供だった私は感情を言語化する術をもたなかったから。言語化されないまま培われてしまった感情は出来事とむすびつくことなく胸の中にしまわれるだけなのだろうか。ショパンは確かに私を形成する要素であったということ、ただ言語化できない領域として使われないまま今も奥底にしまわれているのだということを、最近ショパンを聴きかえすたびにぼんやりと考える。