好ましさについての覚書

誰かに対して感情を持つことがある、その感情は生活を取りまいてきた環境の影響を自覚しないうちに色濃く受けていて、もっと言えばイデオロギーや社会通念の中で文化的に構築された枠組みに準拠して育まれるのだ、そんなことになんとなく気がついたというか、そう結論づけて納得したいというか、それが私のありようですと宣言しておきたいというか、とりあえず暫定的な考えがそういう感じのものであるんだと思ってる、好きとか好きじゃないとか嫌いとか生理的に無理とかうんざりしたとか、そういうのはただ好ましさのフェーダーが上がったり下がったりしてるだけで、何がきっかけで上下するかなんて自分でもわからないし、ただそれだけで、本当はほかに何の意味もないはずなんだけど、好ましさにもあらゆる色がついていて、好ましさのフェーダーは言語や概念を獲得するにつれてどんどん増えていく、好ましさにくるまれた正体不明の感情をじっと見ていれば、執着かもしれないし、性欲かもしれないし、コンプレックスとか、普通のしあわせな人生とかいう刷り込みとか、寂しさとか、憧れとか、情とか、惰性とか、好奇心とか、鬱屈とか、なんかそういう、何がいくつあるのかよくわかんないけど、そういうのを全部分解して納得しないと気が済まなくて、全部わかっておきたくて、自分のことは全部掌握できるものだと思いたくて、でも嫌いって思ったらもうおしまいで、それ以上はわかんなくて、ただ嫌いなの。あんたのことはなんにもわかるわけがなくてだから話を聞かせてくれって言ってんの、話さなかったらなんにもわかんない、なんで黙ってんのかわかんない、なんであたしがこんなに喋ってんのにひとつも理解しないのかわからない、あんたの、箱みたいにがちがちに構築された直線の感情を、粉々のパーツに分解してみたくてじっと見ている。あんたは、寂しくて、プライドを傷つけられたくなくて、いつからか自分をまっすぐ見ることをやめてしまって、誰かに許されたい。何も喋らないあんたに投げかけた言葉はあたしの投影で、結局あたしはあんただけを見ることはできなくて、あたしはあたししか見ていない。馬鹿みたい、何もかもが馬鹿みたいだけど、全部言葉にしないと世界と関わっていけなくて、でも誰が何を言葉にしてみたって3分後には全部変わっちゃってもおかしくない、言葉にしたからって永劫不変の煌めきが獲得できるわけじゃない、そうでしょ、わかるよね、だからさあ、早く会おうよってそう言ってんの。