寿司桶

日曜の明け方4時前にふと目が覚めて携帯を見たらある人からメールの返信がきていて丁寧に画像も添付されていてそれを見たら一気に打ちひしがれて、ただなんてことないその人の大事なものについてのわたしとはなんら関係のない話だったのだけれどそういった大事なものを「得られていない」わたしがただただ間違っているような気になってひどく沈んで泣きながらまた寝た。その12時間後には図書館で予約してやっと順番が回ってきて借りてきた岸本佐知子の『死ぬまでに行きたい海』を読んでいた。ソバージュとつっかけだった岸本さんは部長の大事な資料に寿司桶ひっくり返したことがあったのかとしみじみ想像したら笑えてきて、でもそこから持ち直すことができないくらいにどうしようもない日曜日を過ごしてしまったので色々なことを諦めて19時に寝ようと布団に潜り込んで寒いから寝具を増やそうと部屋が暗いまま押し入れを開けたら倒れてきたギターが勢いよく顔を打った。一瞬前に心の大半を占めていた今すぐ死にたいも自分にはなんの価値もないもいったんはどこかに吹き飛び、応急処置に向けて頭が冷静に行動の優先順位をつけ出す。アイスノンなんて家にないから炊いて冷凍した米を顔にあててひどく手先が冷えてきてくそ寒いと思いながらしばらく経っても鼻の付け根のあたりがひどく痛み続けるから心許なくなり色々検索していたら「鼻の骨は折れやすい」といった有象無象の情報が目にとびこんできてさらに心細くなり、くだらないやりとりをしていたSに「鼻折れてるかも」とメッセージを送ると「えっマジ…」と明らかに引いている返事が返ってくる。落ち込む。30分は冷やし続けろそして翌朝腫れと痛みが続いていたら耳鼻科に行けという情報を得てそのまま冷凍の米で顔を冷やし続けて凍えながら寝て起きたら痣も腫れもなく押せば打ち身程度の痛みを感じるものの骨がどうのこうのというものではなく安心した。いつもどおり香水をふり、ピアスをつけて、RMKの素晴らしいコンシーラーなどを肌に塗りルースパウダーをはたき、アンドビーのクリームアイシャドウ、バーガンディブラウンという色名で売り出されているその化粧品は確か昨年の秋に買った、化粧とか別にどうでもいいし人の顔になっていればなんだっていいでしょうと思ってこの間も唇や瞼に塗るなんやかんやをたくさん処分したばかりなのにでも秋がくるってこういうことか夏に買ったきらきらのラメのアイシャドウはずいぶん使ったけれどいったん終わりだなあ真冬にマットなファンデーションとモーヴピンクのリップに合わせたらかわいいかもしれないけれど、などとつらつら思って、そう、このアンドビーのバーガンディーブラウンのクリームアイシャドウはジミ・ヘンドリックスの色だと突然思った。ジミ・ヘンドリックスは赤銅色の声をしている。一面に黒光りする砂に夕日が照り返すようなどこか寂しくて一直線にぎらついた色。ニーナ・シモンは夜のクレマチスのように深い紫色。アレサ・フランクリンは燃えるように真っ赤な真紅の声。
 
あちこちの駅のホームで、ゴッホ展のでかいポスター?看板?なんていうかわからないけどゴッホ展の宣伝で糸杉が貼り出されているでしょう、あの暗い藍色を泳ぐ不安定な筆致をぼんやりと眺めていると自分が剥がれていくような浮遊していくような研ぎ澄まされていくようで世界がめくれていくような心持ちになるんだよね。阿佐ヶ谷駅で快速電車を待ちながらゆらゆら帝国を聴いていたからかもしれない、そういえば先輩がゆら帝ゴッホも好きだった、おれゴッホの青が好きなんだよねと言ったあれは先輩だったかなFだったかもしれないし別の人だったかもしれないし、そんなことどうでもいい、とにかくそんなことじゃない、そういうことじゃなくてそういったことはどんどんふやけてはがれていってふわふわと霧散してはじけて消えるだけで。
 
わたしはSをとても近くに感じるけれどSはわたしについてそのようには思っていないだろう。Sがわたしをどのくらいの距離に感じているかはどうでもいい。逆説的にそれがSを近く感じる理由だと思う。例えばわたしはSが何をどのように悲しんだか知らない、深い悲しみであると外部から定義づけられるような物事を案外あっさりと受け止めていたかもしれないこと、そういった狭間で揺れ動いたかもしれないSのことを何一つ知らない、そのような機微が存在したかもしれないことは薄々わかったような気がしているけれどそれを率直に尋ねたことはないしこれからもきっとそうしないだろう。Sも同様にわたしの苦しみや無気力や空虚さなどを知らないはずだし、薄々知っているような気になっているかもしれないし、全然違う角度からわたしを見ているかもしれない。
 
2つか3つ下の男の子の話を一時間聞く、ということを最近はひたすらやっていて本当に歳下の男の子は可愛いものだと思う。そのままきらきらと色々なことを経験してつらいことがあっても深く考えずに乗り越えて立派な大人になっていってほしいと思う。それのどんなところが好きなのか?ということを話の序盤で尋ねてみると心の内からそのまま出てきたような言葉が聞けると最近わかってきた。頭がよければ生のものなんて出さないしその場で誂えて提示してくれるのだけれど、何をどのように組み立てるのかという構成そのものは隠せない。Sに聞けないことがたくさんあるぶん知らない人と差し違えるように対話するのが楽しくてやめられない。conversationじゃなくてdialogue。相手の中に深く潜るようなことをもっとしてみたい。先日、遠くに誘われたけれど諸々のしがらみで断りたいと持ちかけられたからじゃああなたがここに居たい理由を説明してみてよと言ってみたらぱっと相手の顔が明るくなって、ひとりの人の中にはたくさんの感情が同時に存在してしまうのだと思う。「誘われたところに行きたくない」の裏には色々な石ころに混交して「残ってこれをやりたい」があったりする。たくさん転がる感情の大小はさまざまで欠片に自分で気づけないことだってあるから、自己(=相手)のどの感情をどんなふうに増幅させるかが他者(=わたし)が介在する意義なのだと思う。こういったことを続けてきてやはり数を重ねたのもあるけれど理論じゃない感覚が確かにある。そういえばわたしはやりたいと思ったことはなんだって人並み以上にできてきたのだ。もちろんできないことだってたくさんあったけれど人から驚かれるくらいにできることだってたくさんあった。だからやらなければいけないことではなくてやりたいことをやっていていい。そういったことを近頃よく考える。スタート地点の違いとも思ってしまうけれど歳を重ねるごとにそういったこともだんだんと小さくなっていって、すべての物事はただ並列に存在しているだけ。
 
突然寒いから数日スミスを聴いていた。コートがいちばん重たくなる時期まで取っておこうと思ったのにもう聴いてしまった。今年も多分クリスマスと晦日の間のせわしない数日間にもう6年も(6年も!)着ているチェスターコートをいい加減新調したいと思いながらそれでも着続けたままポケットに両手をつっこんでスミスを聴くんだと思う。
 
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フヅクエという本を読むためのお店が東京に3店舗あって、まだ行ったことはないのだけれど行きたいと思っていて、店主の阿久津さんという方が書いている読書日記というメールマガジンに昨日登録したら夜中にたくさんの日記が届いていた。それを今日ずっと読んでいた。仕事中も会議直前の2分間とかにこっそり読んでいた。Web上のプラットフォームに掲載されているのではなくメール文で長い日記が届く。メールで日記を読むのがなんだかとても楽しい。チェルフィッチュの三月の5日間観てみたい。日記を読んでいたら、真似するわけじゃないけれど、今思っていることを全部書いてみようかなと思ってこれ。パッケージングしないで、書きたいことを書きたいように書いてみてもいいのかなと思う。推敲もしないで載せる。