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暑い日曜日だった。洗濯物を取り込むと茶褐色の蛾がとまっていた。翅は厚く、じっと動かなかった。咄嗟に窓を開けて思い切りふると同じ色をした鱗粉だけが服に残った。その粉も手で叩いて払い落とし、窓を閉めた。
 
少し前の夕方に玄関を開けると大水青が落ちていた。森にかこまれた湖のような翅を、その姿体にふさわしくない湿った土の上ではたはたと弱く動かしていた。死に向かう緩慢な運動はうつくしかった。大水青が見たいといつか書いたけれどここを死ぬ場所に選んでくれるなんてわたしは幸運だ。しばらく眺めたのちにカメラを向けて、ファインダーをのぞきこみ、シャッターボタンを押す—その数秒のうち、一連はひどく残虐な行為のように思えてむくむくと罪悪感が湧き起こった。死にゆく姿を写真におさめれば生きていた虫の分身はただ儚くうつくしいものとして永遠にそのイメージに閉じこめられてしまう。そのような責任を持たない意味づけを私が行っていいのだろうか—という、この躊躇さえも無責任な心の動きだと思った。虫を写真に撮ることすらこんなに怖気付いてしまうのに、荒木経惟や古屋誠一が愛する人の死に向けてシャッターを切った瞬間はいったいどんな心のうちだったのだろうと想像するとさっと冷たいものを飲みこんだようだった。随分前に大学の図書館でクロード・モネの画集をめくっていた。妻カミーユが死にゆく様子を描いたデッサンが何枚か載っていた。息を引き取った後のカミーユが死の世界でどんどん色を失ってゆく様が、皆がよく知る睡蓮と同様に—光や水が湛える瞬間のきらめきのように—それでいて狂おしく描きつけられていた。世界の中で変遷するすべての物事は、目にとびこんでしまったら視覚情報として並列に処理される。そのことも考えるとなにか、恐ろしいような心持ちがする。
 
次の日にまた玄関を出ると大水青は動かなくなっていた。埋葬しようかと考えているうちに雨が降り、次の日も雨、濡れた土の上で翅は先端からぼろぼろと欠け落ちる。薄緑がだんだんとすきとおってきれいに消えていくんじゃないかと願望を含んだ想像を浮かべたけれど、しっかりと躯体は残したまま、泥にまみれながらずくずくと朽ちてゆく。絹の糸で丹念に織り上げた着物が忘れられたまま雨風に曝されて価値を失っていくようだ。こうなればいっそどんなに時間がかかっても構わない、自然に消えてゆく最後までしっかりと見届けてやろうと決めた。
 
死んだ大水青も、今日服についた蛾も、カフカが変身させたグレゴール・ザムザの毒虫さえもみな虫だといってしまえるのだけれど、大水青の死骸だけは何かもっと違うもの—例えば紫陽花のようなものに近い。うつくしい時期に背筋を伸ばして沈黙のうちに咲き誇っていたものが沈黙のままに色褪せてゆく—その様はひりひりともの悲しいが、同時に自然な移り変わりとして受け止めている自分がいる。私がひとりで送る毎日や生活のようなものに、円環めいた順応ですっと組みこまれている。この当然さ、半ば諦めのような受容をできていることが、わたしはなんだか少し苦しい。
 

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