バイエルのおけいこ

耳朶や乳房に針刺す寂しさを紛らすためにバス停へゆく

継続の重みを知らぬ金魚ゆえゆうべのあまさを映して赤い

牛乳に氷を入れてすましてた子の嫁ぎ先ミシンが2台

外国の言葉の喧嘩はリズミカル自転車乗れないロングスカート



おとうとの車をおもう夜もあり都会の家はひとつひとつで

おおらかに冬を許せど愛なしに行方晦ます風船葛

明るくて広い世界のひとだから飛行機事故は明かさぬままで

冷える手を握ればどこにも行かれない東京の蛾も大きくはない



雑踏の記憶が孕む生臭い朝 引き分けの始発で渋谷

肌にはるための言葉がはがれてた歯切れよく笑う気づかれぬよう

水よりもかるいとされるそれを飲む鉛と炎のはじまりをおもう

ノッキンオンヘブンズドア、利き腕とキスのしかたを変えただなんて

なんらかの復讐みたいに煮えきらぬ返事をしてみる夏の真夜中



バイエルのおけいこのような日々でした、おしまい。靴をみがいて置いた

あいしてるきみを生きることのするどさを透かせたままで硬い背中を

すきとおるひかりを集める ただ、せめて割らずにいられるわたしでありたい

光る目のきみがマスクを外す秋 わたしは先にいくからまたね

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以前詠んだ短歌にはそれぞれに裏付けされた出来事があるはずなのだけれど、それなりの月日が立てば出来事の意味と記憶は剥がれ落ちて、言葉は打ち捨てられた流木のように風化しつつある素材として残るのか。時間の経過のみならず、きっと昨年からはじまったゆるやかなパラダイムシフトのおかげでもあるのかもしれない。すげーと思った。詩歌をつくることがもつ機能を発見したような、個人的でささやかな感動。こういったものが得られるのならまたやってみようかという気にもなってきた。