着脱

近頃よく通る道の中で、坂を登って右に曲がる、すると視界の隅にちらりと横切る一棟の古びたアパートにはたったひとつの部屋にも灯りがともっていない。かつて人を住まわせていた時代の姿を残したまま存在し続けているその建物は、今を進んでゆく生活の時間から放り出されながら、誰からも忘れられることもできずに、こうしてわたしが経験する毎晩の中で「知覚される」という受動の出来事を被ることだけを積み重ねて、存在だけがただこれからも果てしなく続いてゆく。それは一体どのような時間軸に所属するのだろう。
 
「縦軸の感覚」ともいうような錯覚に陥ることがごく稀にある。あるものをひたすらに知覚するとき、目の前に現前してわたしの視界を埋め尽くすそれは、膨大な過去あるいは未来を起点として定点的に捉えてゆくならば、傲慢に纏わせたわたしの知覚などは剥ぎ取られてゆき、最後にはそのものの本質だけが残るのだと思う。ベールのような自分の知覚はなんて矮小なのだろう。知覚の着脱ともいってみるけれど、わたしの中で起こるその戯れめいた想像が、縦軸の感覚である。引っ張っては巻き戻す。くるくると回りながら同じところを繰り返して、毎日違う朝が同じようにやってきて、夜になり、坂を登って、右に曲がる。
 
知るべきでないことを知るときの快楽というものがあるのだと思う。なんの変化もなくただ茫洋とした不安がひろがった真っ白な布に、ひとつぶの黒い液体がぽつりと落ちて、ゆっくりと内部の繊維質を侵食してゆく。一縷の黒い汚点がだんだんとひろがり禍々しい模様に変わってゆくような、知るべきでなかった、あのひとの現在はそのようなものとして今わたしの中に形作られてゆく。これ以上視線を合わせたくなくて目を閉じて考えるのは、このような関わり方が正しくないと思ったから今の暮らしにたどり着いたはずなのに、まさか死ぬまで一生このような求心力に引き寄せられてゆくのだろうか。心のどこかでほんの一欠片でもこのような願望をもっていればそちらに向いてしまう。断ち切れるだろうか。今度こそは、逃げ切れるのだろうか。