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違国日記を読むようになってからふと少女小説という存在を思い返す機会が増えた。きらきらした気持ちだけで読み耽っていたのにつまらない成長の喧騒にたち消えてしまった物語はいくつもあるけれど、一番読み返したいものはなんだろうと考えて、荻原規子西の善き魔女』を選んだ。小学5年生の時分に熱心に読んでいた記憶があるから16年ぶりくらいの再読になるのだろうが、今読んでも息ができないくらい面白い。フィリエルという女の子の冒険譚で—という大雑把な前置きだけで話を進めるが、竜退治に出向いた先で世界の果ての壁の向こう側にひとりきりで行ってしまったフィリエルはそこで吟遊詩人と数日を過ごす。壁のこちら側に戻ることになったフィリエルに吟遊詩人は「この数日間のことはあなたの感覚機能が現実と認識しているにすぎない、二度と起こらない夢だった。今は現実でも後には幻覚だとさとる方が健全な生き方だ」と、きわめてせつない認識論的な見解を述べる。それに対してフィリエルは「あなたがどういう人だったかずっと覚えておくわ、あなたが言ったこともなるべく全部」と告げて、戻ったあと本当に全部を覚えていてルーンにすべてを語る。という場面を読んでこの物語が初めて深くゆらいだような気がした。吟遊詩人がこの話の中では類を見ない魅力をもったキャラクターだというのもあるのだけど。
 
記憶の不確かさや忘れることと忘れないことについてこのブログで何度も書いている。忘れてしまいたいことを忘れるために書いているのだと思っていた。今では言葉にできるくらいどうだっていいのだから霞のように手中から逃がしてしまおうと思って書いていた。忘れないと決めてずっと忘れないでいるだけの強靭さが私にはない。一回きりしか起こらなかったことを現実と信じてずっと覚えていられる気概が私にはない。この先もう二度と起こらないなら存在しないことと一緒。忘れないと普通に生きていくことができないから忘れていく。普通の大人だから忘れなきゃいけないことは忘れていく。ちゃんと生きていくにはたくさんの気持ちの中から前向きなものを選ばなければいけないから忘れていく。時間さえ立てば色も輪郭もぼやけて透明になっていくこと、箱の奥底にしまいこんだ記憶は使わなければ錆びて溶けてゆくことを知っている。言えなかった気持ちも胸が塞がるような思いも忘れるための毛布を被せてしまえば大人しく眠りこんでそれっきり。だから、普通の生活をおくるために、テロも震災も5年前にいなくなってしまった人のこともどんどん忘れていく。ただ粛々と脳がつとめを果たして当たり前のように忘れていく。そのことがすごく怖い。思い出そうとしてもあのときに何を思ったのか、何があったのか、思い出せない。覚えているべきと、覚えていたいと思ったことが本当はひとつもなかったんじゃないか。「忘れてたってことは忘れてなかったってこと」っていつかのシャムキャッツのライブで夏目くんがいっていて、そうだなとそのとき思った。シャムキャッツを聴いていたこと—曲のことだけじゃなくてそのときの自分がそのときの場所でそのときの感情で聴いていたこと—も、一昨年とか去年とかなのに、あんまり覚えていない。覚えていないのは、全部がこの先二度と起こらないとわかってしまったからだと思う。同じ人たちと同じように集まってももう二度と同じことは起こらない。忘れてた、と思い出しても、同じことはもう二度と起こらない。
 
—ここで書いたことは町屋良平『生きるからだ』を読んで考えたことが大部分混ざっているかもしれない—
 
フィリエルが吟遊詩人のことを忘れるか忘れないかは話の本筋ではないのだけど、この話を読み終わったらなにか大事なことを、16年間忘れていたことを思い出せるだろうか。忘れていたことってなんだろう。思い出したいことが私にはあるのだろうか。忘れることが怖い。こんなことは覚えていなくていいと思うことが怖い。覚えていなくていいと判断されたそのときの自分が忘れられることが怖い。忘れられることがものすごく怖い。そのときの自分がどこにもいなくなったら私がいなくなるのだろうか?主体というものははじめから存在せず行為の結果にすぎない、とジュディス・バトラーはいったけれど、じゃあ忘却を連続した結果に残る主体ってなんなのだろうか?こんなにあやふやな自己を打ち消すように、私だってもう二度と起こらなくってもなかったことにしたくないと、言ってみる。自分のことを忘れたくない。普通に明るく生きるために自分を手放して忘れる、という手段を、本当は全然ちっとも選びたくない。