qolfb.

数時間前に雨が上がった昼間、そびえ立つ団地は北側に影をつくり陰気な寒さが淀んでいた。その淀みは通り抜けて、川辺へと続く階段を数段降りて座り込む。イヤホンを耳につけ、コンビニで買ったささみ揚げを食べていると数羽の鳩が寄ってきた。やけに人慣れしている様子で、スニーカーのつまさきが触れるほどに近づいてくるのだった。少しだけ蹴り出すように足を動かしてみるとパタパタと羽を動かして飛びのくが、またすぐに歩み寄ってくる。暴力を受けそうな気になるほど貪欲に近づいてくる一羽があった。冷たい瞳を据えられるとまるでリモコンで操作される何らかの機械のようにも見えて、自動的に鋭利な嘴で皮膚を噛みちぎられそうで、瞬間に底が抜けたような恐ろしさを感じた。 今手にもっている揚げた鶏肉をこの鳩がつつきはじめればそれは共喰いと呼ぶべきか、との疑念が頭をよぎる。しかし鳥は鳥でも種別が異なるわけだし、生きた鳩とささみ揚げを鳥という雑把な分類で認識してしまうのはこちらの勝手である。きっと目の前の鳩はこの鶏肉を食料の塊としてしか認識していないはずなのだ。型どおりの情に動かされ、生命の摂理に残酷さのレッテルを貼ることの浅ましさを恥じた。
 
丸い穴が空いた円卓の下に、生きたまま木箱に入った小猿の頭を嵌めこむ。料理人がその猿の頭を輪切りにしたのち、脳髄に酒を注ぎ匙で掬う。そんな珍味が中国にはあるらしい。猿のもつ知識は、記憶は、どんな味がするのだろう。
 
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数本の木材からたちのぼる炎は未だ勢いを持たず、しかしゆっくりと燃えひろがっていた。数分前から始まった新年を寿ぐ家族連れがとりかこみ、夜中の暗い鈍色に橙がよく映えた。先端がちらちらとゆらぐその様は、昨日の昼間に出くわした鳩よりもなぜだかずっと、意思をもつ生き物のように見えた。聞けば、妙な落ち着きをもたらす不思議なゆらぎの正体は数理の観点から証明されているらしい。紙袋や飾り札がときおり炎の中に投げこまれると、異物をのみこむように橙色がわっと濃く色づきながらゆらめき続けていた。 少し目線をあげると火の粉が舞い上がっている。ごく細かな炎の破片は一定の高さまで昇ると、ぱっと灯りを消して煤に変わった。その一瞬が繰り返される様子とふりかかる煤臭さまでが目新しくて、しばらくは動かなかった。
 
同じように腑抜けた顔をして空中を見上げた春の夜があった。プラスチックの管を咥えてそっと息を吹きこむと、勢いづいたつややかな球がいくつも生まれる。上に向かって吹きあげるとシャボン液の苦味がわずかに舌に乗った。年度を終えて長い休みに入ったその街は寝静まることもなく、深夜の住宅街だというのに嬌声をあげてはしゃいだのだった。子どもじみた楽しさにまかせて夢中で吹き続けていたのは、彼女が泣きそうなのに気づいていたからだった。上まで飛ぶやつは天国にいけるけど下に落ちるのはいけないんだよ、と彼が自嘲じみた声で笑っていた。
 
あのころのわたしは色々なことが怖かった。決めなければいけないのに何も決められないことが怖かった。全員が違う気持ちを持っていること、大事な人が遠くにいってしまうこと、自分だけどこにもいけないこと、まだ一緒にいてねと言いながらいつか離れていくとわかっていること、忘れていくこと、忘れたいのに忘れられないこと、あのひとをものすごく好きになること、たくさんの人を少しずつ好きでいること、興味の対象になること、判断されること、死にたいと思いながら眠ること、なにひとつ言葉にならないこと、すべてを言葉にしてしまうこと、彼が死んでしまうかもしれない、彼が死んでしまった、終わること、始まること、二度と会わないと告げること、思い通りにならないまま過ごしてゆくこと、傷つけたくないと思いながらいつか期限が来ること、誰も見つけてくれないまま素通りされること、ギターの生音、調律のあっていないピアノの和音、子どもが泣き叫ぶ声、発情した猫の鳴き声、何回もノックされること、警察を呼ばれること、着信がずっと鳴り続けること、避妊具の使用を拒否されること、知らない女の子の名前、あの子と一緒の気持ちになること、真夜中に出歩いても窓から家に入っても男の子にはなれない、生理がくること、生理が遅れること、ひどい鈍痛で冷や汗をかきながら動けなかったこと、化粧をすること、ヒールの高い靴を履くこと、子どものままでいること、大人になることが怖かった。
 
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年始の初読は松浦理英子『最愛の子ども』だった。
 
料理や食事についてたくさん書けたらいいなと思っている。