pfcxs.

 

今の仕事は随分性に合っているけれど突き詰めれば私は個人志向だから出世はしたくないな、と長らく思っていた。結局一番向いていたのは(知識云々の有無は別として)カウンセラーだったのではないかと何度も感じる場面があった。他人の話を聞くことはとにかく面白い。もっと柔らかいところを吐き出させるにはどこをつついたらいいのかと考えを巡らす癖がついた結果、道具は使い方次第と痛感させられるようなことを何度か経験したりもしたけれど、つまるところ一対一で関わる中で相手の変容や心境の開示を目の当たりにできるのは楽しい。だからなのか複数名での場や組織のようなものにまったく興味を持てなくて、大人って馬鹿ばっかりじゃねえのと隠れて舌打ちしたりしていたのだけど、違う場所に集まってみれば馬鹿なだけではないきちんとした裏付けが垣間見られることもあるとわかった。これはこれで興味深いものだな、と思った。
 
幸田文を読んでいると仔細な観察眼とぐし縫いのように細やかな言葉の使い方にとんでもない気分になってくる。『流れる』は仕事を書いた小説としていっとう好きな部類に入る。
 
この土地の何に心惹かれるのかははっきり云えないが、とにかくこの二日間の豊富さ、——めまぐるしく知ったいろんなこと、いろんないきさつ、豊富と云う以外云いようのない二日である。その豊富さは、つまりこの世界の狭さということであり、その狭さがおもしろい。狭いからすぐ底を浚って知りつくせそうなのである。知りつくした上に安心がありそうな希望が湧いているのである。しろうとの世界は退屈で広すぎる。広すぎて不安である。芒っ原へ日が暮れて行くような不安がある。広くて何もない世界が嫌いだというのは、ここが好きだということになる。
 
幸田文『流れる』

 

 
もうひとつこの小説が好きな理由は、花柳界という独特な世界で成り立つ女の共同体をさらりと強く書いてみせたところ。近頃流行りのシスターフッド(もうブーム終わった?)だとか声高に叫ばれる女の団結みたいなものが私はかなり怖くって(連帯によってあぶれる存在が生まれるという加害性の再生産みたいなものに目を向けなければフェミニズムの意味がないと思う)、けれどこの小説と成瀬巳喜男の同名映画の中で、打算的なのに根本では情深く支え合う女たちの姿を見ることができて、大きく勇気づけられたと思う。
 
年末頃から意図的に生理を止めることに成功しているのだけれど、『燃ゆる女の肖像』を観て、自分にリプロダクションの機能が備わっている現実に向き合うときの絶望を思い出した。下腹部の鈍痛を共有すること、女が女の堕胎を見ること、堕胎を模した場面を描くこと。この映画の中では抵抗は感じなかったのに『存在の耐えられない軽さ』でテレーザが感じた、風呂場の施錠を許さない母親と身体が分離できない恐怖や、恋人が寝た女たちと同じ分類の身体になることの嫌悪と、境目はどこなのだろう?やはり身体や視線を媒介する男が存在するかそうでないかに集約してしまうのだろうか?
 
きらびやかな電飾は好きになれないが、春めいてきた今、何を寿いで光を放つのだろうと思った。色も光も熱も意味をもたないのであれば少しだけ愛おしいような気もした。黒猫が一匹目の前を横切った。ジンクスを思い起こす途中でそれは方向を変え私の向く方へと進み出し、数歩は同じ速度で追いかけた。不幸は訪れるだろうか。