ロマン

人に興味がある。うわべにはあらわれない深い底の中にひとりきりで沈んだとき、人は何を考えて、何を決めるのか。目の前の人に対してそのことを一度でも想像すれば扱いきれないほどの好奇心に駆られる。だから、常軌を脱したような人に一度会ったなら、とたんに頭の中が蕩けたようになってしまうのだ。もっと知りたい。その人しか知らない場所にわたしも這入っていきたいと、突き抜けるような、憧憬にも似た、あまくしびれるような感情が脳をとっぷりと満たすから—それこそが恋に落ちることだと思っていたけれど、これは知らない言語の枠組みに対する好奇心と何ら変わらない。他人の心はまるごと理解できるような構築物ではないのだ。深淵のごく細部まですべてを理解することを諦めたとき、わたしの目には、他人がどう映るの?
 
 
 わたしをフライムートに逢いに行かせたいと思っていた友達はみんな、わたしのことを小説の主人公として見ていたのだ。だから、危険のにおいのする男性を訪ねていくというロマンを見て、そのロマンを小説というロマンと重ね合わせて、期待の息を荒げているのだ。わたし自身もまた、自分の身体を小説の中で使われているものと了解し、できることならいつも我が身を危険にさらしていなければいけないと思い込んでいた。壊れそうな橋があったらすぐに渡ること。腐りかけた魚があったらすぐに食べてみること。そして何より、自滅しそうな人がいたらすぐにその人と恋仲になること。
 ところが女医はわたしが危険な目にあうのが絶対に嫌なのである。「危険を避けていたら、面白い体験はできない」と言ってみると、怖い顔をして「面白い話は他人のものでしょう。あなたの話ではないのだから。それを奪って商売するのですか。あなたの人生は退屈で幸福なものであっていいのです」と答えた。
 わたしは唖然となった。確かにわたしはその人たちと出会って、まるで自分のことのように人間の中に入っていった。しかし、わたしが一方的に入っていったと感じているだけで、女医の言うように、彼らが他人であることに変わりはない。そうやって危ない境域をさまよっているうちに、わたしの方が足を踏み外して落ちることもあるだろう。それを密かに期待しているわたしは、慢性の自殺未遂を試みているようなもので、だからこそわたしと似た人たちを引き寄せてしまうのだろう
 
 —多和田葉子『雲をつかむ話』