wijdy.

詩情もクソもない日が続く。先般『存在の耐えられない軽さ』を観た。原作を読んだ際はテレーザのありようを受け入れることができなかったのだけれど、ジュリエット・ビノシュの天真爛漫でいて色濃い影のある表情がたまらなく良くて収まりがついたような気分になった。観ながらふと思い出したのはあのひとが「飲み物の入ったグラスが手元にあるのが怖い」といったことだった。聞けば幼い頃の夜中に起きた偶然で、父親が口喧嘩の勢いのまま母親にコップの水を浴びせたところを見てしまったという。「こんなことは誰にも話したことがない」と聞きながら、記憶のトリガーって他人には予想もつかないものだなあ などとぼんやり考えていて、そんな話を聞いたこととは関係なくその夜は彼と寝ると決めていたからそうしたのだけれど、その行為自体は私にとってさほど意味をもたなかったように思う。その夜以前にあったことやそれからの一連をまとめて思い出すと随分ひどいことをしてしまったような気がした。だからどうということではないのだけれど、いちばんひどいのはどうということではないと思っていることかもしれない。何もかもが今の私にとってはどうだってよくって、このこともずっと忘れていたのになんとなく思い出してそのついでに今書いているだけで、書いてしまえるくらいどうだっていいと思っている。ただ誰かにとってひどいことをしたかもしれないという事実を私の出来事として自分の中だけにしまっておきたくなくてだから書いてしまうのだと思う。わからない。加害者ぶって感傷に浸るなんてくだらない。こんなことはどうってことではない。これを読んだ人が傷ついたり傷つかなかったりするのかもしれなくてそんなひらけた可能性をこの話に付与したい。こうやって考えていることもくだらないと思う。
 
違国日記の7巻がとにかくよかったので3日に1回くらいのペースで読み返している気がする。槙生ちゃんが「書くのと読んでもらうのとその分嫌われるのはそれぞれ別で」のようなことを言っていて、なんだそれでいいのかと思った。映画を2本観てミモザとサボテンを買った。春は好きだ。