電車に乗ると隣には若い男女が座り、つい聞き耳を立てる—二人とも関西の訛りがあり、付き合ったり寝たりはしていないがお互いにそれなりの好意は持っている様子。職場の同僚か。男はしきりに寒くはないかだとか女の体調を気遣う。女は声優か何かの推し活に勤しんでいるようで、推しへの愛が強すぎてTwitter上で嫌われ挙句の果てには掲示板に晒されてしまったのだといったことをまくしたてていた。男は丁寧に、優しく、辛抱強くその話を聞き、ネット上の喧嘩エピソードで盛り上がっていた。聞いていて怖かった。からっぽだと思った。もしこれが普通とされる会話なのであればこっちから願い下げだと思った。他人のコミュニケーションの断片を聞いただけですべてを解ったような気分になる自分も少し嫌だった。私は分析的になりすぎるきらいがあるようで、それが愉しいのだけれど、最近は理解されないことの方が多い気がする。外に出て一瞬出くわした場面でこんなにあらゆる感情が沸き起こるのだから一切の社会を目の当たりにしたくないとさえ思う。
とにかく「推し」という概念がいっさいわからない。自分が関与できない対象に労力やコストを注ぎ込んでどうするのかと眉を顰めてしまう。以前このような話をしたときに同じような立場の人は「だってアイドルとセックスできないじゃん」といっていて、極めて的を得た言い表し方だと思った。なぜ世の中の人は推しに入れこむのか、そんなこと、私が考えてもしょうがない。社会学でもやっている人が新書を出して解明してくれるだろう(もう出ているのかもしれない)。ただ、私が熱量をもって観たり読んだりしていた映画や小説と、何が違うのかとも思う。こんなこと考えてもしょうがない。
夕方から眠っていてこの時間にすっきり目が覚めてしまった。夢の中で私はまた吹奏楽をやっていて、演奏について指摘された事項—本来は譜面に書き込むべきこと—をなぜだか生の鶏肉にメモしていた。発泡スチロールに載せられラップを被ったべとべとする肉の切り身を取り出して、シャープペンシルで苦労しながら書きこんでいく。しばらく常温に晒された肉はぬるく、しばらくすると腐り始めるだろうと焦っていた。引き出しをあけるとまた大量の生肉が積み上げられていた。暴力的なほど生身のものにふれる感覚で想起するのはフランシス・ベーコンのこと、葉山で観た初期のドローイングがものすごく良かったから渋谷の展覧会にも行きたいのだけれど、やはり緊急事態宣言の煽りを受けて休館が続いていて、果たして観ることは叶うだろうか。