春の澱

また前みたいに会えて嬉しいわ、そう言ってあの子はきらきら零れるように笑ってた。あの子が私の側を離れた日、知らない電車に飛び乗って広いお城に着いたけど、落ち葉を踏みしめる自分の足音に驚いて動けない。あっという間に夜が来て、あたしは繰り返し再生する、突きとばす夏と歓待の冬、川底を浚って見つけた春の澱。まだ知らない季節があたしを組み敷いてお腹からあたたかな熱を取り出して、ひらひらと傷をつけていく。真っ赤な水の中で何人もあたしを通り過ぎる。仮面をつけた背の高い人たちが笑いながらあたしの中をとおりすぎる。重たいマントを剥いでむき出しになった白い肌、柔らかく伸縮したらあくびして、砂糖菓子を握りしめればべとべとに残る昨日。夜を見渡せば一面に、ふやけた鉛が転がって、灼けつく砂が流れてる、目の中で海がふるえてる。翡翠色をしたあの子の海で孵化する蜂が怖かった。あの子の顔が歪んでる、泣き出しそうに眉をひそめて、わずかに口を開けて、そのときが合図だと教わった。ピンヒールが脱げて落ちてゆく、息を止めたら三つ数えて、廊下を走って通り抜けて、河原の石が積まれる前に音を立てないでさあ早く。息を切らして振り向けばあたしがいた場所はワンルームの狭い独房。赤いカーテンのかかった部屋の中でしくしく泣いてる男の子。足下に転がる銃弾ひとつ、放り投げれば粉々に打ち砕かれる暗い夜。あの子がいるのは昏く尖った破片の中。夜の破片は言葉だから。ひとつ残らずかき集めて、覗きこんだら破片の裏にあの子が見える、言葉の向こうにあの子がいるの、あたしはそう信じてじっとりと吸いつくひとひらを口に放り込み、どくどく煮えたぎる血の味をいっぱいに含んで恍惚としながらあなたにくちづける。

ところで

顔も上げられないような日々を過ごしていた。やっと息をつくと色とりどりの花が芽吹いていて道が眩しい。毎年楽しみに待っていた沈丁花は盛りを過ぎて褐色にくすんでいる鉢すらあった。

脱水寸前の状態で水にありついたような勢いで映画を観て本を読んでいた。アピチャッポンの新作、ロベール・ブレッソンの硬質な映像、ベルトルッチのドリーマーズ、マーガレット・アトウッド尾崎翠、そしてオーシャン・ヴオン。一体何が私を生かしているんだろう。

情報や義務のようなものに自分が埋没していくようだ、という感覚があった。それと同時に、物事の表面しか、正解とされる面しか見てはいけないのだという感覚に陥っていた。事物には表と裏があり、裏面――メルロ=ポンティの言葉を借りれば服の裏地のような――を覗きこめば無限に言葉がひしめいている。ある瞬間にふと表から裏へと世界が反転する。そうすると数多の意味がわっと表出してひとつひとつの断片が散らばる。まるで腹部を開かれた裸体から夥しい内臓があふれ出すように。ぞっとするほど膨大な観念の堆積、そのような艶めかしい可能性が満ちている。それらひとつひとつの断片を拾い上げて丹念に積み上げると、言葉は連なって相互に作用して、それが文章になるのだと。世界の断片をどのように作用させてどのように息づかせるか。というようなことをつらつら考えていたけれど、私は本当の意味でまだ言葉を獲得できていないのかもしれない。表と裏を行き来するのに疲れて、私は書くのが怖い。でも今やっと息ができている。日記を書くときに私は私を生き直していると、書くことが自分を創造するのだと、スーザン・ソンタグがそう言っていた。埋没してしまった私をもう一度生き直す。ばらばらに散らばった断片の中に埋もれた自分の輪郭を切り出すような? 大きな穴の中に突き飛ばされて土砂を被せられた、その暗い地下から這い出して肺いっぱいに酸素を吸い込むような? その行為の流跡がこれ。どんなに矮小なものであっても私の意思に基づいて何かの意味を構築できる、その事実を胸いっぱいに吸い込んで、ひりひりするような切実さと、深い安らぎと、重たく冷たい寂しさで打ちのめされそうになって、私はその感覚がとても嬉しい。私は私だけでたった一人だから書くことができる。でも、世界に混在する暴力や死の背景には、誰か一人の(あるいはたくさんの一人たちの)意思が、私の意思と同じように存在している。そのことを考えると耳を塞いで叫び出したくなる。暴力や権力は熱くどろどろした非情さで私の中に流れ込み、裏面で息づく無数の意味を一瞬で溶かして灰にする。そのことがとてつもなく怖い。パブリックスペースにはびこる大文字の言葉を何も考えずに咀嚼して飲み込まないで。ベッドの中で目を閉じて書く私のためだけの言葉を信じさせて、お願いだから。

起点

彼女は昼と夜の区別がつかなくなったらしい。一日中とろとろと眠っては目覚めを繰り返す。たとえ日が落ちかかっていようとも起き抜けこそが彼女の朝だ。「こんな早くにどうしたの」と、一日に何回も同居人に声をかけるという。
 
そんなふうに暮らす日々はどれほど耽美だろうかと思う。時間さえ蕩けてしまって、植物が這う窓からは薄暗く光が差し込んで、夜を能動的に待つことすらしなくていいのだ。ただ穏やかに笑って、当たり前のようにいがみ合って、ゆるやかに忍び寄る何かを待ち受けるということ。
 
離れた土地でわたしは毎日彼女の色彩に囲まれて、これからも変わらず暮らすのだろう。壁や鞄の中にそっとあるだけでなく、ほかのところに散りばめている自分で選んだ色や柄でさえ、もとから彼女のものだったのかもしれない。色はただ綺麗に取り合わせられてそこにあるだけで、本当はあたたかくもつめたくもない。とにかくわたしの家に置かれればそっとあってくれるだけなのだ。じっとりとしたあの湿度はわたしが見出しすぎてしまっただけだったのかもしれない。
 
ルーツなんてものを自分でつかみ取っていいのならばこうやって身の回りに置いているこまごました小奇麗な色たちを選びたい。その選択の中には懺悔も悔恨も、感謝だって含めるつもりはないけれど、そんなにクリーンな行為ではないから、窓際にうずたかく積まれた本を読み終えたらまた書きたい。
 
—2017/7/3

 

 
このときの行為者である彼女はもうこの世にはいない。彼は媒介者だった。ずっと媒介者としてその場所の情報を届けてくれていた彼がついさっきの電話で突如として行為者になった。いや、たったさっきから「彼が行為者である」という認識が私の中で始まったというべきか。彼は行為者である自分のことすら淡々と媒介した。ちっとも声色は乱れず、むしろ僅かに動揺したのは私が泣き出したからだったようで、かえってこちらが慰められているようだった。混乱している。泣きじゃくりながらMac Book立ち上げてこれを書いている。他にとるべき行動があるはずなのに書くしかできない自分の状況が痛烈に突き刺さる。彼がそうなったことを真っ先に話したい人が思い浮かばず、そのことがぽかんと穴が空いたようで、でも、だから書かずにはいられない。当たり前のようにいがみ合って暮らすその場所での時間は続いていることはわかっていた。いつまでも私の記憶のままではなく、場所も人も老いていくことはわかっていた。ずっと見て見ぬふりをして、別の場所に意識を向け続けて、そうやって自分ひとりの中でなんとか折り合いをつけようとしていた。いつかこういうことが起こるだろうと確信めいた憶測も少なからず抱いていたけれど、ないことにしていた。私の目の前で起こっていないのだから。出来事は私の知らない間にゆるやかに進む。私にとっては認識した時点からそのことが始まるのに。そういった起点のずれを何度経験しても子供のように不思議な気持ちを感じる。私は彼女のときを同じことを繰り返すのだろうか。彼のことを媒介してくれる人はいない。どうしたらいいだろうか。出来事を受け入れる状態へ向かっていくしかない。そこへ自分を向かわせるしかない。けれど、私はあまりにも恥の多い行動をとりすぎたし、昔から今までとても人には見せられない感情ばかりだ。それでも彼は許してくれていることが、私はとても悲しく、恥じ入るような気持ちになり、素直に感謝することすらできない。本当は、許されるなら、10歳の自分に戻って、もう一度やり直したい。

in-between

突き抜けるような苛立ちを頭の中いっぱいに滾らせて視界一面の色がさらさらと薄くなってゆく、皮膚の内側は可笑しいくらい清らかで優しい手触りのようでいて、感情と相反した身体の反応はまっすぐだ、ある種の整い方をしている反応はバロック音楽の旋律のようでもあり、キッチュだ、という形容がぽんと飛び出すように思い浮かばれながら、果たして俗なものを俗だと鼻で笑う自分を愚かだと嗜めるメタ的な認知に終止符を打つだろうか、私の中の誰かが終止符を打つだろうか、一体誰が、階段を降りて建物を出る、黒々と濡れたアスファルトに大粒の牡丹雪が執拗に落ちてきて、湿った寒さに目が潤む。水分を多く含んだ大粒の雪はぼとぼとと外套や鞄に纏わりついてずっしりと重たくのしかかり、じわじわと体内を侵食する。執拗な通せんぼに困り果てるような心持ちになってゆき、ちかちかと白い雪が視線の邪魔をして、気持ちの行手が阻まれる。雪が頭の中をいっぱいに埋め尽くしてうまく眠れない。一度溶けて凍った雪はわずかな障害として存在するとともに歩行者の生を映して突き返す。ざくざくと軽やかな音を立てて潔白な輝きを汚しながら足元を踏み固めていく靴の持ち主はその軽快な音に幾分かの満足感を覚え、直ちに忘れながら、雪が積もったこと以外には何の変哲もない休日の朝を急ぐ。

使い古された喜び

週末、高田馬場でオールド・ジョイを観た。隣に座った人は申し訳ありませんと言いながら開始直前に出て行って、二度と戻らなかった。それから人同士の分断について考えていた。ずっと一緒にはいられない。それはどうして? 悲しみは使い古された喜びって本当だろうか。すべての感情は地続きなのにあの人とわたしの間には壁がある。

 

近頃は日記を読むのが楽しい。先月は富士日記を読んでいた。今月は、少し開いて眺めて閉じる、を繰り返して、スーザン・ソンタグの日記を読んでいる。二年ほどかけて読み続けてやっと三冊目も半ばになった。他者に開かれることのない言葉が綴られたノートを出勤ラッシュの山手線で読み耽っていると、日記は不思議な媒体だとつくづく思う。ソンタグの日記の中で、言葉のもつ伝達の機能は「過去の自分—現在の自分—未来の自分」という三者の間で働く。そして、現在の自分を定義するため、時には現在以降の自分を想像するための道具として言葉が使われる。彼女が彼女自身だけのために書いた言葉はひりひりと鋭くて、飲み込みきれないくらい熱くて、甘やかに流動する。書くこと、考えること、人を愛すること、母に対して考えてきたこと、そういったことが事細かに書き記されたされたその日記から引用したい箇所がたくさんある。けれど、彼女が彼女のためだけに綴った言葉を借りて考えるわけにはいかないような気がしている。

 

ノートに日記をつける習慣が続いてひと月以上が経った。わたしは人の名前を日記に書くことができない。その人とかあの人だとか、彼女・彼というように、誰だかわからない指示詞や代名詞として隠してしまう。わたしにとってはたった一人のその人を、たった一人なのに、たくさんいるうちから無作為に選んだ名前も持たない誰かに変えてしまう。誰にも見せない場所にひっそりと誰かの名前を書くことはその人に手垢をつける行為だ。自分の心の中だけでその人が近づいたような錯覚を覚える。まるでこっそりと後をつけて私生活を把握するような後ろめたさがある。でも本当はそうしたい。あの人の名前を日記に書きたい。あの人をたった一人の人としてわたしの中に棲まわせたい。そんなふうに思う自分が穢らわしくて嫌になる。いつか名前を日記に書いたなら、その人を所有したい気持ちが膨らんで、そのうち爆発してしまうんじゃないかと思う。

薬と金属

金属と薬品と煙が混ざった匂いがした。無機質なのに人肌のぬくさがある匂い。よく知っている。知っているつもりになっている。今でも。今になったから。何も知らなかったのに、出来事は時間が経つほどに風にさらされて角が取れ、隙間は埋まってゆく。気がつかないうちに思い出の完成形が仕立てられてゆく。できあがった記憶はぬるぬると移動してどこかへ送り出され、しばらくすれば見えなくなる。ぽっかりと空いたそこに新しい現在が入りこんで知らぬ間に始まっている。渦中にある今の中でめまぐるしく歩き回り、喋り、何かを思い、その繰り返し。どこかにしまいこまれた記憶を引きずり出すのは今が続くから。何度も何度も思い出し続けていると現在は止まってしまうよう、静止した今が手の内から離れてどこか遠くへ吹き飛んでしまいそうに思うけれど、それよりもずっとはっきりと現前するのは、過去がきちんと手を離れていること。どんなに思い出が手触りとぬくさを湛えていてもそれはかつて存在した事実があるからにすぎなくて、そのことが終わっていれば、そっと手を離れて、現在がやってくる。現在の中でめまぐるしく動くそれらは今存在している、すぐに手に取ってやわらかさやあたたかさを感じることができなくても、目の前のことは今存在している。あの人によく似たその人はあの人ではない。その人がすこし顔を傾けてこちらを見据えればあの人にはちっとも似ていない、そのことに愕然と気づく瞬間に、今の続きが始まる。現在は何度も再生されて、そのたびに終わりながら、新しく始まりながら、不可逆に続いてゆく。

光の粒

大森の辺りに来ると真っ先に、あ、地面が低い、と感じる。なんでだかわからないけどそう思う。快速特急に乗って大森を通り抜けてそのときも同じように、いつもより低いところに来た、と思った。不思議だった。海の近くで必ず感覚が働くというわけでもなく、大森に来たときだけそう思う。

大森よりも南にあるその街は右を見れば川、左を見れば海になっているような土地で、大きく広がる水の側に立ち、まるで初めて海を見たような気分になってみる。真新しい気持ちで物珍しく海面を眺めて立ち尽くしてみる。海に来れば必ずそうする。何度だって新しい気分をやってみる。大きく翼を広げて風に乗る鳥が数羽旋回していて、私は鴎か鳶か海猫かの区別もわからず、ああ海の鳥だ、とだけ思う。

西日を背に受けて、海沿いにまっすぐ歩いて、大きな声で笑う中学生くらいの男の子3人とすれ違って、左手に小さな湾を跨ぐ白い橋がかかっている。その橋を進んでいくと陽は私の左側から海に差す。橋を渡りきって、まっすぐ海面に反射する夕日を見ていた。縦に伸びる光の根元は白くまとまって、先端に向かうにつれ細かくばらけていく。細かくさざめく波の角に光の粒が現れては消えて、小さな光の一粒一粒が出現と消失を繰り返す。ずっと見ていると、ぱちぱちと移り変わってはじける光の全部が眩しくて、ひとつひとつが姿を失っていって、視界いっぱいに光る大きな景色に変わっていく、見えているのに何も見えなくなって、光を見ているんじゃなくて、全身がその光でいっぱいになっていく、目が眩みそうなのに目が離せなくて、何かに取り憑かれてしまったようで、頭が変になりそう。この感じを知っている。相手の目しか見えなくて、見えているのに見えなくなってしまって、見えているものが私と同じものなんじゃないかと思うあのとき、ベッドから抜けて部屋を出てしまえば私とは関係ない他人だけどそのときだけはその人の全部が私と同じものになる、あの瞬間に似ている。あるいはもっと幼いころ、迫り来る世界が暴力に満ちていたころに聴いた、母の弾くピアノの音に似ている。私は何を見ている? この光は陽が落ちかける夕方4時半に私がここに立っているから存在している。向かいから歩いてくるあの人には同じものは見えない。私が踵を返して数歩歩けばたちまち影が差して消えてしまう。私にしか見えなくて、私に知覚されていることによって存在する光。その光を見て、私は、見ているのに、光は自分と同じものだというような気になっている。認識とは同じになること? 溶け合ってしまうこと? それとも初めから区別がなかった? 世界は元々大きなひとつのもので、生も死も自己も他者も官能も愛情も地続きで、タブーなんて存在しなかったのに、文明によって分断されてしまって、ひとつひとつの物事に意味が生まれていって、分断されてしまったから私のちっぽけな頭の中だけで考えてこねくり回される言葉。だから大きな海にiPhone向けて動画を撮ってインターネットに載せる、誰かに読まれることで私の中だけじゃ生まれない意味が付与されますように。書きながら考えている、書いていないときはこんなこと考えていなかったし、でも考えていなかったからといって私の中にないわけではない、あるから言葉が出てくるわけであって、なければ何もない。何もないことになるのは怖い。例え分断された世界の中でふっと生まれた些少な意味でしかないとしても、ないことになるのは嫌。書き終わったらこの思考はおしまいになって、あの光の粒みたいにすぐ消えるんだろうけれど、言葉になったら存在したことが残る。

 
 
 
 
 
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