光の粒

大森の辺りに来ると真っ先に、あ、地面が低い、と感じる。なんでだかわからないけどそう思う。快速特急に乗って大森を通り抜けてそのときも同じように、いつもより低いところに来た、と思った。不思議だった。海の近くで必ず感覚が働くというわけでもなく、大森に来たときだけそう思う。

大森よりも南にあるその街は右を見れば川、左を見れば海になっているような土地で、大きく広がる水の側に立ち、まるで初めて海を見たような気分になってみる。真新しい気持ちで物珍しく海面を眺めて立ち尽くしてみる。海に来れば必ずそうする。何度だって新しい気分をやってみる。大きく翼を広げて風に乗る鳥が数羽旋回していて、私は鴎か鳶か海猫かの区別もわからず、ああ海の鳥だ、とだけ思う。

西日を背に受けて、海沿いにまっすぐ歩いて、大きな声で笑う中学生くらいの男の子3人とすれ違って、左手に小さな湾を跨ぐ白い橋がかかっている。その橋を進んでいくと陽は私の左側から海に差す。橋を渡りきって、まっすぐ海面に反射する夕日を見ていた。縦に伸びる光の根元は白くまとまって、先端に向かうにつれ細かくばらけていく。細かくさざめく波の角に光の粒が現れては消えて、小さな光の一粒一粒が出現と消失を繰り返す。ずっと見ていると、ぱちぱちと移り変わってはじける光の全部が眩しくて、ひとつひとつが姿を失っていって、視界いっぱいに光る大きな景色に変わっていく、見えているのに何も見えなくなって、光を見ているんじゃなくて、全身がその光でいっぱいになっていく、目が眩みそうなのに目が離せなくて、何かに取り憑かれてしまったようで、頭が変になりそう。この感じを知っている。相手の目しか見えなくて、見えているのに見えなくなってしまって、見えているものが私と同じものなんじゃないかと思うあのとき、ベッドから抜けて部屋を出てしまえば私とは関係ない他人だけどそのときだけはその人の全部が私と同じものになる、あの瞬間に似ている。あるいはもっと幼いころ、迫り来る世界が暴力に満ちていたころに聴いた、母の弾くピアノの音に似ている。私は何を見ている? この光は陽が落ちかける夕方4時半に私がここに立っているから存在している。向かいから歩いてくるあの人には同じものは見えない。私が踵を返して数歩歩けばたちまち影が差して消えてしまう。私にしか見えなくて、私に知覚されていることによって存在する光。その光を見て、私は、見ているのに、光は自分と同じものだというような気になっている。認識とは同じになること? 溶け合ってしまうこと? それとも初めから区別がなかった? 世界は元々大きなひとつのもので、生も死も自己も他者も官能も愛情も地続きで、タブーなんて存在しなかったのに、文明によって分断されてしまって、ひとつひとつの物事に意味が生まれていって、分断されてしまったから私のちっぽけな頭の中だけで考えてこねくり回される言葉。だから大きな海にiPhone向けて動画を撮ってインターネットに載せる、誰かに読まれることで私の中だけじゃ生まれない意味が付与されますように。書きながら考えている、書いていないときはこんなこと考えていなかったし、でも考えていなかったからといって私の中にないわけではない、あるから言葉が出てくるわけであって、なければ何もない。何もないことになるのは怖い。例え分断された世界の中でふっと生まれた些少な意味でしかないとしても、ないことになるのは嫌。書き終わったらこの思考はおしまいになって、あの光の粒みたいにすぐ消えるんだろうけれど、言葉になったら存在したことが残る。

 
 
 
 
 
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