誰かに対して感情を持つことがある、その感情は生活を取りまいてきた環境の影響を自覚しないうちに色濃く受けていて、も
彼の創意によって無化された彼女について私が知っている二、三の事柄
彼女を無化することは彼の創意なのだ。
―レベッカ・ソルニット『私のいない部屋』「戦時下の生活」
浅学な身で簡単に書けることか自信ないけれど、ビルドゥングスロマ
絵に描かれた女は「眼差す主体」である男性の欲望を引き受ける客
だからある期間は客体として認識されることに心を砕いていたんだ
相手が私を眼差したときに自分が透明になってしまうと感じたのは
レベッカ・ソルニットを読んでぼんやりと兆した考えを忘れないよ
固有性についての覚書
年越しの1時間くらい前に電話がかかってきて、出たらYだった。声を聞くのはいつぶりかよくわからなかった。少し話して、お互い落ち着いた頃に飲みに行く約束をして、電話を切った。
人の固有性のようなことについて。
その人がその人でなくちゃいけない理由はどこからくるんだろう。
自分が好意を向けられたとき、その理由は私が持つ属性だとかステータスなのだと思っていた。映画や本の話ができるから、話を聞くのが上手いから、顔や声などの身体的特徴が好ましいから、など。そういった属性がその人にとって必要なくなれば私は忘れられてしまっていい。そういうふうに考える方が合理的だと思っていたし、納得もしていたし、上手くいかなかったときのために初めから見せるのはここまでというボーダーラインを持っていたと思う(上手く機能していたかは別として)。
けれど、例えばYと似通った声と顔つきで同じような趣味の人が現れたとして、そのとき私はYを忘れてしまえるだろうか。YはYとして私の中にしっかりと根を張っている。だから別の人で代替できるわけがない。その根づきを構成するものは一体なんなのか。経年といったらそれまでだけど、その中で何があったのか。Yと知り合ってからの10年間、大したことは何もなかったようで思い出す場面はたくさんあって、レイトショーでゴーン・ガール観た帰りにコンビニの駐車場で気まずくなったときとか、町田康借りて読んだとか、よせばいいのに私がつっかかるから不毛な喧嘩になったこととか、高円寺で安い酒を散々飲んだこととか。私からずっと連絡しなかったのだって後ろめたい出来事があったからだった、でもこのことまで考えると収集つかないから都合よく忘れる。全部綺麗な思い出とかじゃなくてただそういうことがあったってだけだし、Yのことなんかいつも考えてるわけじゃないし会ったときもわざわざ思い出話しなくたっていいし。でもあったことは覚えてる。
私の中でYが固有性を持つ理由はそういった昔の出来事だけでもない気がする。例えばYの口調だとか茶化すタイミングとか間の取り方とか煙草の吸い方とか、出来事の周辺を取り巻く言語以外の情報というか、そういったものが全部引っくるめられて固有性を構成しているような気もする。その人を取り巻く微細で捉えどころのないその人らしさが誰にでもあって、私はいつのまにかそれらを手繰り寄せてしまう、当たり前のようにそうしている。その手繰り寄せた集積が相手の固有性であり、その人との関係として自分の中に根づいていくのかもしれない。
私はYにとって代替可能な存在だろうだと思っていたし、私がいなくなっても彼が困ることはないだろうと高を括っていた。けれど、Yが電話をしてきたのはきっと私の集積のようなものが彼の中にもあったからで、どんなにどうでもいいことであれ私に話すことによって意味をもつ何かがあったからなのだと思う。10年も経ってしまったのだから、Yの中にも少なからず私の根づきがあるのだろうと思う。
私を透明にしないでほしいと思っていたけれど、自分を透明にしていたのは自分だった。その人と会っているときまるで私の中だけにその人との関係が集積されていって、相手の中には私の存在は何も残らないものと思い込んでいた。けれど、私が自覚していない自分の口癖とか、自分では忘れてしまった言動とか、そういったものがYだけじゃなくて別の誰かの中にも集積されているのかもしれない。そのことは考え出すと怖くもあり喜ばしいことなのかもしれないけれど、ただそういう事実がきっとあるのは自覚しておいてもいい気がする。
そのうちYに会ったらきっと自分の記憶に裏切られるだろう。Yの声は少し大人びていた。去年は誰にとっても散々な一年だったはずなのだから、Yもきついことをたくさん経験しただろうし、取り巻く環境の中で変わっていっただろう。私の中でYの固有性を構成していた何かが今の彼には残っていないかもしれない。幻滅することもあるかもしれない。それでも一度私の中に根づいたYの固有性はもう別の何にも代替できない。同じことをそのままそっくり反転させて、Yから見た私として置き換えることもできるだろう。人と知り合って時間が経つってこういうこと。私の固有性は、私自身の中だけじゃなくて、誰かの中にも根を張っていて、時間の経過や環境の変化につれて流動するということ。
ガールフレンドイズベター
Sから大晦日のストップメイキングセンスに誘われたけど断ってしまった。Sに話したいことがいくつかあった。Sは多分結構気を遣ってくれている。大概そのときにはすぐにわからなくて、後で思い出して気づく。
薄暗い部屋で点滴打たれながらチェット・ベイカー聴いていた。頭蓋骨に直接響くような不思議な声。熱があって複雑で、平坦だけど立体的で。どうしたらこんな声が出せるんだろう。イーサン・ホークがチェット・ベイカーを演じた映画を観たことがあった。歯が零れるように欠け落ちて血塗れになっていたトランペット。今はもうない渋谷の映画館でブラインド・マッサージと二本立てで観て、終わって外に出たら全部の音がうるさくて倒れそうだった。
よくわからない時間の進み方に翻弄されて今年が終わっていく。毎日飛ぶように時間が過ぎていったのにとてつもなく長い一年だった。どこに行ったらいいのかわからないことが怖くなって、途中で腹を括って目的地をひとつに決めたつもりでいて、その縛られた道中でも結局息が苦しくなった。今月は寝込んで仕事を休んでばかりいた。行くところがわからないのは怖いけれど、決められた道しか進めないのもすごく怖い。今年やったことが全部意味を為さなかったら浮かばれないけれど、まあそうなっても仕方ないかなとも思う。
新しい年に対する前向きな気持ちも正直そんなになくて、明日になったら全部リセット、明後日からまた365日をやってかなきゃなんないと思うとくらくらしてしまう。ただ一年が終わるってだけでとりあえず終わらせられるのはすごくいい。一回終わりにしてみよう。無条件でやり直すチャンス。現実は映画じゃないから、終わるってことは強制的に次のことが始まることだから、終わりには希望がある。いつもそういうふうに、そのときどきでやっつけの暮らしをして、ひとつの期間が終わったら/あるいは終わらせたら全部捨てて次に行く、そういう暮らしをしてきたように思うけど、やっつけで暮らすのももういい加減にしなきゃなとも思うし、でも続けることってものすごく怖いし、この人に会えるのあと何回まで?って計算して自分でぞっとしちゃってたし、ちょっと何書いてるのかよくわかんないけど。このブログも一年以上続いてしまって怖くなってきている。まだやめない。終わらせることができるのはあと何回までなんだろう?何も終わらせることができなくなって、続けるしかなくなってしまったら、逃げる場所がひとつもなくなったらどうしよう。トーキング・ヘッズで一番好きなのはファーストアルバム、赤いやつね、あれ聴いてたらそういうの忘れられていいんですけど。まあどうでもいっか。今年が終わっても状況は変わらないかもしれないけど、今まで拘泥してたよくわからないしがらみを忘れるきっかけにできるし、まあそうなったらいいかなって、思うと幾分ましな気もするけど。
アーモンドのチョコレート
ゆらゆら帝国聴いていたら、昔に2回くらい適応障害と診断されたことを思い出した。だからなんだということもないけれどその事実を書いておいたほうが自分にとっていいような気がして書いておく。あまり人に言うことでもないし、特にオフィシャルな場では不利に働くから絶対に口に出さないと決めている。でも人に言わないことって自分の中でもどんどん薄れていく。記憶は使わなければいつか錆びついて溶けていってしまう。その頃のことは断片的にずっと書いてきているけれど、とにかく色んなことのやり方がわからなかった、友達も恋愛もセックスも時間や約束の守り方さえなんにもわからなかったのに全部を一気にしなくちゃなんなくなって、その頃のことを甘く思い出して弄んでみたり苦々しく噛み潰してみるけれど、診断があった頃の周辺のことを思い出そうとすると頭の中に靄がかかってよく思い出せない。ただ、皮膚の中に染みこんで突き刺すような茨城の真冬の寒さとか、箱庭療法のセットが置かれた陰気くさい相談室とか、そのときどきで変わる精神科の先生の声色とか、春になると突然プランターの寄せ植えがあらゆる色でいっぱいになったことが、コマ割りのように断続的に再生されて、次にやってくるのは東京に来た春は信じられないくらい桜が綺麗だったこと、まるで鈴木清順のツィゴイネルワイゼンみたいに、途方に暮れるくらい綺麗だったこと。
わたしは特に人間関係にまつわる色んなことがうまくできないけど、多分うまくできない自覚以上に能力の高さと客観性を持っている自信もあって、だから普通じゃない部分を自分の力で全部カバーできると思っている傲慢なところがある。自分の意思よりも先にどう振る舞えばその場で最適解なのかがすぐにわかるから、正解とされる行動を取り続けてきて、結果的に自分の首を絞めることになっていて、近頃は本当に苦しい。色んなことのやり方を覚えたけれど、外箱だけがどんどん丈夫に分厚くなっていって、わたし自身の中身は失われていく。だから、色んなことがうまくできない自分を大事にすることが本当に大切で、うまくいかなかった頃のことばかり思い出すことはものすごく大事なんだと思う。他者と適切に関われるようになったらこういうふうに昔のことなんか思い出すことも必要なくなるのかもしれない、そうなったら未来の話とかするのかもしれないけれど、そんな日がくるかもわからないし、期待もしてない。
脈がずっと早くて、熱が下がらないまま4日経った。本当はこのままずっと熱が下がらなければいいと思う。もしずっと治らなければ、乗ってしまったレールから降りて誰からも期待されなくてよくなるし、自分にも期待しなくていい。何もかもおしまいにしてしまいたい。甘い想像。
いつもそんな気分
熱が出そう。腰のあたりの身体の奥底か皮膚の表面かわからない場所がちりちりとさざめいて、顔の中いっぱいにたぷたぷとぬるま湯が入っているみたいで、手足ばかりがいつまでたっても冷たい。物体になれない生煮えの思考が浮かんではぐるぐると渦巻いて、あらゆるものが混ざって混沌とした穴に落ちていく。誰かと一緒にいるときはその人のことを理解することだけ考えたい、そうしないとわたしはばらばらになってしまうから、だけどどんなに努力してもわたしの中にはその人を突き放せる部分がある、理解を断ち切って離れていける部分が存在してしまう、そのことを考えるとさみしくて、何にも意味がないような気がして、猥雑なものに全身を委ねて投げ出したくなる。理解を許さない人もいて、体当たりの理解なんてはじめから必要としない人もいて、どうしたらいいの、わたしはそんなときにどうしたらいいのかさっぱりわからない。大事なことはすぐ忘れてしまうけどちっとも大事じゃないことはいつまでも覚えてる。名誉とか見栄とかお金のことはどうだっていい、その人だけに起こったことの話はずっと覚えてる。だからわたしのことだけ見て、適当な言葉で時間を埋め尽くすのはやめて、わたしのことを見られないなら何も言わずに今すぐそこから出て行って。あなたはそうする責任を負ってわたしと会っている。本当はいつだってそう言いたいのにそう言えないから書いている。言わなければなかったことと一緒? 存在させたくなくないから書いている。思考をどこかに存在させたいから書いている。書くのも、必死に働くのも、あの人に会うのも、歩くのも、泣くのも、全部が思考を知覚したいから。
メロウ
夢を見てるような感じを忘れないで、よくあるメロドラマみたいな感じでね、三つ数えたら立ち上がって、そこは晴れている日の青い芝のような匂いがするはずで、明るくて影ひとつない、何も変えてはいけない、いつもどおりひとつずつやるだけ。しっかり立って、前だけ見て、目をそらさないで。窓からどこまでも抜けるような青空が見えてそのまま眺めていると真っ逆さまに落ちてしまいそうだった。風が強い夜、色づいた葉が一面に舞い上がって、海の中で背を光らせて泳ぎ続ける魚のようで、道路には工事を知らせる色とりどりの光が煌めいて、人々はどこかひとつの出口へ向かうようにせわしなく動いていて、街全体が生きているように見えた。わたしは歩きながら大きな生き物に取りこまれてゆく、息づく世界を感じながら、一歩踏み出すごとに世界の中に存在するたったひとつのものに成り果ててゆく。
あの人のそばにいるとわたしはばらばらになってしまう、嘘でも本当でもない言葉を紡いでいると、喧噪だったすべてがひとつひとつわたしの中に流れ込んでくる。誰かの咳払いや、アップテンポの音楽、隣にいる男女の会話、安っぽい模造真珠のイヤリング、誰かが覗き込むスマホに表示された経済ニュース、それらのひとつひとつが、膨大な空間と時間が集積された重量としてわたしにかぶさってきて、ばらばらになったわたしはなんにも受け止められない。何も見えなくなって、どこに行こうとしていたのかわからなくなって、途方に暮れて座り込んでしまう。うまくいく方法はわかっている、その方法を何度も何度も唱えてうまくやろうとする、間違えないように、失敗しないように、うまくやろうと唱えるほど粉々になっていって、わたしはもう何にも従えない。拒絶も決定もできないままただこうして、くっきりと自分の輪郭が切り出されていくのを感じながら、羽化するときの蛹はこんなふうな気持ちだろうか、頑なにつくりあげた固い殻の中で自分がばらばらになってゆく、破片がどろどろに溶解して、ぐちゃぐちゃに混ざり合ったまま、もう一度少しずつ形になってゆく、そうしたら殻を割って脱ぎ捨てて、何にも従わないで行くことができる、正しいこともハッピーエンドもわからないまま行くだけ。