大阪旅行はこれといって特別なことがあったわけではないけれど何か不思議な感触が残るものだった。とりあえず梅田まで行く、ということだけ決めて新幹線を乗り継いで行ったはいいものの着いてみたら入り組んだ道なりやいたるところに張り巡らされた広告に辟易してしまって、わかっていて来たのに何を今更、という思いもあり、間に合わせで入った喫茶店で煙草の煙を浴びながらぼんやりしていた。若い男性二人が大声で風俗嬢の話をしていた。向かいにはすっと長い首にショートボブがよく似合う百貨店の店員がジャケットを着たまま腰掛けて、右手にアイコスをもってときおり口に運んではゆっくりと咥える。左手の携帯電話を耳に当てて、とろけそうに甘い顔をして、一言ずつ噛んでは口に含むようにつぶやいていた。疲れてたでしょう。最近。疲れてるの? 見てはいけないような気がしてどぎまぎして、目が離せなくなった。電話の相手もこんなに甘い声でしゃべっているのだろうか。その顔を見て声を聞いてみたいと思った。この世の果てみたいなこんなに甘い顔を、わたしもすることはあるのだろうか。そうこうするうちに彼女はすっと席を立ち、会計を済ませ、仕事に戻っていった。

宿についてもすることがなく、とりあえず本でも買いにいこうと思って歩いていたら熱帯魚屋を見つけた。園子温みたいと思ってつい入ると、ずらっと並んだ水槽の中にたくさんの蘭鋳が泳いでいた。頭に水疱ができた奇形のようなのと、おたふくかぜに罹ったみたいなの。皆一様におもたげな頭を左右に振りながら、ぼてっと丸い身体には短すぎるくらいの胸びれをぱたぱたとくゆらせて、何を考えているのかわからない顔つきで水の中を泳ぎ回る。昔のわたしだったら、水槽から出たら生きてはいかれないこんな生き物が生み出されて高値で取引されるなんてと心を痛めたかもしれないな、と思って、昔のわたしが思ったかもしれないことを想像するのは不思議だ、しかし何もいわなくてすぐに病気にかかってしまいそうなこの魚は、かわいいやつらだな、と思った。

九条駅から北西のほうにまっすぐ歩いていくと大きな川があり、西九条駅に行くにはその川の下にあるトンネルを抜けなければならなかった。階段を下っていくとひんやりとして四角いトンネルが伸びていて、等間隔に設置された工事用ライトが余計うす暗い印象だった。川の底にいるんだ、と思ったら背筋がぞわっとして足早になる。警備員が一人立っていて、こんにちは、とひとりひとりに向かって気さくに挨拶していた。そうでもしないとここで誰もいないときに誰かと何かが起こったらどうなるんだろう、と思った。こんなトンネルひとつ通るのにも怯える自分に少し苛立った。

シネ・ヌーヴォで手に取った雑誌には松浦寿輝の『花腐し』の実写化撮影をしていることが綴られていた。純愛、という安いワードが目についた。そんな話だっけ。フランス人か中国人の面妖な女に誘われてワインとドラッグを溺れるように飲んで、屋根裏部屋でべとべとな体液を交換しながらやりまくって、朝になったらむせかえるような匂いだけ残して忽然と女は消えている、みたいな話じゃなかったっけ。

 

宿の近くの本屋で買った古本は大庭みな子の初期作で、ビジネスホテルの風呂の中や飛行機で読んだ。洒脱でコミカルな会話の応酬と、倦怠感のいきつく先にある耽美な錯覚。馴染みのない土地で読んでいたら、移動そのものが思考の過程であるような気もした。

 

「今しがたも寝たいって男の電話があったのに、そっちを断って、あなたにはどうぞ、どうぞ、って言うなんて、ちょっと気が引けるのよ」
「いいからさ。結婚申し込みをしている男なんだぜ。証拠に婚約指環をやるよ」
 ガクは本当に酔っ払っていた。
「まあすてき。コーヒーとケーキで教会のロビイで婚約発表のパーティをしましょうよ」
「阿呆。そんなことをしたら、もう他の男と寝られなくなるんだぞ」
 電話が切れるとサキは机の抽出しから小さな鏡をとり出して自分の顔を映した。それはもう若い顔ではなかった。陽に焼けて、目のまわりには黒い汚点が目立っていた。これが、つかめる最後の機会かも知れなかった。彼女は眼を閉じ、少しも構図のまとまらない画面に再び苛立ち始めていた。

  —大庭みな子『構図のない絵』