タクシードライバーと幸田文について

春から東京に行ってタクシードライバーになるんだ、と聞いた。その日の夜に読みかけの本をめくったら、タクシードライバーとの短い恋愛のことが綴られていた。翌朝、目にとまった幸田文の書評を読んでから図書館に出かけると、読みかけの幸田文全集が自習机に伏せられていた。辞典が脇に置いてあり、いくつかの単語とその意味が書き取られた紙もぺらりと机上にあった。とても不思議だった。

タクシードライバー幸田文の関連はないけれど、こうして書いてみるとわたしの中では両極端に据え置かれているような気がする。深夜に半泣きで乗り込んだタクシーの運転手は何も聞かなかった。よくあることなんだろうな、それとももっとひどい客を乗せているのかもしれない、と思いながら、努めてしゃくりあげないようにしていた。そういった生活を送っているときは幸田文を読めなかった。あの静謐な文章に背中をぴしゃりと叩かれることが後ろめたかったから。わたしはきものや流れるといった初期の作品が好きだけれど、祖母の本棚には晩年の作品がどしりと重厚的な単行本で並んでいた。月の塵、木、崩れ。それらをすべてもらってきたけれど、開けていないことに気がついた。

 

ひとつ手に入れたら別のものが欲しくなるのはなぜだろう。それでいて、もう何もいらないから放って置いてほしい、という気分も定期的に訪れる。何も欲しくない、というのもつまるところは欲望の一環なのだと思う。あれが欲しくて、これも欲しくて、何もない空っぽな生活も欲しくてたまらない。いくらうんざりしても、欲望に突き動かされるときがいちばん、生きてるっていう感じがするんだけど。