シャネルあるいは遊歩者について

これ使っちゃったんだけどいらない?と差し出すと、え!シャネル!ほしい!いいの!?ありがとう!と言うや否や次の瞬間にそれは私の手を離れ、彼女はすぐさま手鏡を出して、真っ赤な色を唇に乗せたら恋人のところに駆け寄っていった。予想以上に喜んでくれてよかったな、とほっとした。別の子に、きらきらしてとってもかわいいの、でも唇荒れちゃってね、だからあげたの、と話したら、目をぱちくりさせながら、ラメラメなのー?と聞いてきて、その声色がどこか少し羨ましそうだったので、不公平だったかな、と思いつつ、この子にもいつか何かのお祝いに新しいのを買ってあげよう、と思った。その後ろで小さな子がぬいぐるみで遊んでいた。ずいぶん重くなったその子を抱きあげて、大きくなったらシャネルのリップ買ってあげるからね、と冗談めかして話しかけたあと、この子が二十歳になったときに私は五十歳になっているんだ、と思いついて途方もない気持ちになった。二十年も経てば円安はどうなっているだろうか、と思った。その子を抱いたまま畑のほうにいき、小さなすいかをもいだ。畑で子に靴を履かせて立たせた。すいかを渡したらにこにこ笑って喜び、別の人に渡して回っていた。

勤め先の今後がいよいよどうなるかわからず、シャネルのリップを次にいつ買うのかもよくわからない。パン屋が店をたたみ、スーパーマーケットが立ち退き、隣人が越していき、県は負債を抱えている。変わっていくことは金が絡むことばかりで、けれど金が関与しないことは何も変わらない。

 

 

しばらくは漱石を読もうと意気込んで古本を抱き抱えるように買い込んできたのに、『門』のうらぶれた湿度や立ちこめるやましさをどっと浴びたら、食傷してしまった。

テジュ・コールの『オープン・シティ』を再読した。読んでいる最中の日々、祖母が夢枕に立ったり、明け方に目が腫れるまで泣いたりした。夜に歩き回ることを再開した。何かを被った経験は身体に刻まれる。けれど加害の記憶というものは宙ぶらりんに据え置かれたままだ。思えば私は確実に加害をした。または共同体という単位での被害の経験、あるいは加害の経験について。都市が持つ記憶について。都市ではないこの場所について。夜のシャッター街を歩き回る。さみしい気持ちにはならない。