零度

(前に書いてたやつ)

突然サイレンがけたたましく鳴り響いてあなたのことを思い出したのです。あなたは最後にその綺麗な指でコーヒーに角砂糖を落としてスプーンでかきまぜてひと口啜ると淀みなく立ち上がりあたしに背を向けて、それきりでしたね。

あなたの首元には幾つかのほくろがあってあたしは正三角形に整列した3つのそれらを眺めながら世界の理について考えるのが好きでした。あの頃のあたしたちは錠剤とスコッチを毎日浴びるように飲み続けてまるで明日が来る方がおかしいんだと言わんばかりでした。あなたはいつもふざけた猫みたいな目をして硝子のようにひんやりとかがやく言葉をあたしに囁きましたね。あたしは何と応えたらいいのかわからなくて、あなたの視線が絡まるのが怖くって、だから窓の外を眺める癖がついてしまって、そうしたら途端に眠くなってベッドに倒れこむものだから、するとあなたは、—

クリスマスにあなたが買ってきてくれた薄桃色のスリップを覚えていますか。あたしはあんなに馬鹿げたレースがあしらわれたものはちっとも欲しくなかったから一晩中泣き喚いて、あたしが投げた赤ワインのボトルが粉々になって、誂えたばかりだったあなたの紺色のスーツとあたしのお気に入りだったクリーム色の置き時計がだめになってしまいましたね。壁に残ったワインの染みが月面の模様のようで素敵だったけれど朝になれば悪臭を放つものだからあたしたちはうんざりしつつも一生懸命ブラシをかけたのでした。あなたはその澄んだ瞳の下にあざやかな隈をつくってまるで老いぼれのかあいらしいむく犬のようで、あたしは可笑しくって大笑いして、そのあとにあなたの洋服を全部燃やしてしまいました。あなたはベランダで声を殺して泣いていてその涙はとても神聖なものに見えました。

あんなにも退屈で腐敗しきった日々がなぜだか恋しいのです。あたしがこんなことを考えていると知ったら今でもあなたはしずかに笑って煙草に火をつけるのでしょうか。左胸のポケットから薔薇色のガラムを取り出して、ひとさし指でそっと箱の底を叩いて一本取り出して、ていねいにマッチを擦って。

こんなふうに嘘を書くことがたまらなく甘美であると教えてくれたのはあなただけでした。

どうか元気で。