彼の創意によって無化された彼女について私が知っている二、三の事柄

彼女を無化することは彼の創意なのだ。
 ―レベッカ・ソルニット『私のいない部屋』「戦時下の生活」

 

浅学な身で簡単に書けることか自信ないけれど、ビルドゥングスロマンの主人公の多くは男性なんだろう。『ムーン・パレス』で堕胎したキティ・ウーを思った。『旅のラゴス』でラゴスを愛した幾人かの女たちのことも。彼女たちの行為―愛する、待つ、泣く、妊娠する、誘惑する、出ていく、といった無数の行為は、彼女たち自身の意思に基づくものというより、主体である男性を映すものとして描写されていた。作品は完成したものとしてひとつの世界を立ち上げる。その中で、男の存在を起点として行為する女たちのことをなんとはなしに思い続けていた。

絵に描かれた女は「眼差す主体」である男性の欲望を引き受ける客体として視る者を眼差していること。「個人的なことは政治的なことである」という第二波フェミニズムのスローガン。女の中で起こるとり乱し。断片的ではあるけれど、そういったことを知識として学んでいて、いっぱしにふりかざしてみたり、精一杯考えようとしていた。けれど、本当のところは自分は客体として認識される地点にすら至っていないと感じていて、そのことをコンプレックスとして引きずっていたのだと思う。男性に「女の子」として認識すらされていないわたしがフェミニズムなんて語れないとどこかで思っていた。同じくらいの時期に岡崎京子たくさん読んでいて、でもわたし岡崎京子の描く女の子みたいに可愛くないからこんなふうになれないとも思っていた(こんな情けないこと初めて文字にしたけれどもう終わったことだから書けたんだと思う)。

だからある期間は客体として認識されることに心を砕いていたんだと思う。相手が認めてくれればわたしは大丈夫。今回も認められるレベルに達していたからわたしは女の子として存在していい。その当時は言葉に出すことこそなかったけれど、心のどこかで必死に自分に言い聞かせていた。でも客体として認識されると同時にこちらだって相手を認識する主観を持っていたし、客体として認識される自分を再認識する視点もどこかしらで持っていた。客体として振る舞ってOKを出してもらうことは、無理矢理にでも体系的に捉え直そうとしてみるならば、主体を獲得し直す過程でもあったのだと思う。

相手が私を眼差したときに自分が透明になってしまうと感じたのは、きっと自分の存在を客体として世界に置いておく必要がなくなったから。自分を認識する主体としての他者が必要ではなくなったから。私自身としての主体を獲得できたからだと思う。

レベッカ・ソルニットを読んでぼんやりと兆した考えを忘れないように書いておく。別のものを読んだら別の視点で違うことを書くのかもしれない。これから何かを経験して立場も変わっていくだろう。どのように変わっていくんだろう。眼差しは権力であると言った人がいたような気がする。眼差す/眼差される、認識する/認識されるといった関係の中にはともすれば権力関係が生まれるのかもしれない。そのような不均衡が存在し得ることに、どんな立場であれ自覚的でいられたらいいと思う。