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自転車を漕ぐような速さで流れる雲をみていた。「あらゆる枠組みを疑い始めたらどうやって暮らせるというの?自分が見ている世界は本物かそうじゃないのか、感染症が流行し始めてからずっとこんな気分だ」と、去年の今日には思っていたらしい。去年の昨日は『去年マリエンバートで』を観ていたらしい。
 
記憶の断片を筋の通った文脈で統合できるのか、というようなことを考えることがあり、それはいまだに感情が即時的であることの怖さを感じるからだと思う。時折思い出しては過去の記録を遡って確認してみるのだけれど今では到底認めたくないようなことも書いてあったりする。認めたくないなら忘れてしまえばいいわけだし、恣意的な忘却は健全な機能だとも思う一方で、最初から最後まで嘘偽りも迷いもない完璧な選択をし続けることへの憧れを捨てきれない。
 
「短歌って頭の中のどこを使って書くの?」と尋ねられたことがあったけれど、少しだけ書いていたときは、集まって重なれば矛盾が生じてしまうような断片のひとつひとつをそのままそっくり取り出そうと努めていた、ような気がする。感情の一過性みたいなものをそのまま受け入れようと試みていた。と言ってしまえば耳に心地よく流れるけれど、(これは手法そのものの揶揄でもなんでもなくて)上澄みを積み重ねてもなにかのきっかけでばらばらに霧散してしまったらあとにはなんにも残らない、と思ってしまったような気もする。
 

切り傷を傷としたまま電車にて素直に曇れるガラスなど見る

—2020/2/17

 

 
自分が見ている世界の中でいったい何が本物なのかは一年経ってもわからなかった。昨日まで信じていたことが今日になったらおしまいだ。あと何回繰り返せばすべてがわかるんだろう、と思ったりもするけれど。