他者性/話すこと

一段高い道から下って川沿いを歩いていると、堤防には一面に水仙が咲いている。ひとつひとつが重たく咲き誇っている様子を見ていると、ヘルツォークが『生の証明』で撮った狂気の風車を思い出す。1万機の風車が等しく回転する、壮大な錯乱の風景。ぞっとする。水仙が頭をもたげる姿は確かに水面をのぞきこむ仕草にも似ていて、自分の姿に恋慕して狂って死んだ少年を重ねてしまうのもある。この川岸を埋めつくす水仙のすべてが寸分違わず回転する風車であり、発狂した少年だったとして。無限の生命が孕む計り知れない狂気の存在を認めることが怖いと思っていた。ということを、もう一歩引いて考えている。他者の狂気が怖いのは、認められないのは、どうしてだったんだろう。

 

19時には外に出るともう真っ暗で、真夜中に歩いているような心持ちになる。暗闇が奥行きを塗りつぶしてしまうから、交差点に立てばいくつかの信号だけが眼前に光っているだけで、平面なキャンバスに落とされた色の移り変わりを見ているようだった。夜の中でほんのわずかに漂う光は花に吸着する。満開の桜と斑に咲いた一重椿、ぼてぼてした唇のような白木蓮が暗闇の中でぱっと目につく。きっと白をベースにした淡い色が光を反射しやすいんだろうとも思うけれど、この季節だけ伸び盛る生命力が光をあまさずのみこんで、代謝しているように見える。大昔から語り継がれる幽霊譚の正体は、昼間とはまったく違った生命の姿を湛えて浮かびあがる花びらだったのかもしれない――そう思いながら夜道をふらついていた。

 

真っ暗な夜というものは理解の範疇を超えた他者なのだと思う。他者性は既存の世界を飲みこんで、見たことのないものに変えてしまう。私は、ひとりひとりの内底にある狂気すら飲みこんでしまうような、すべての背後を覆い尽くす計り知れない他者性に身を投げ出してしまいたかったのかもしれない。そしてそのあとに、自分の狂気をどのように眺めるようになるのかを知りたい。

 

 

標準語を使う自分は論理的ではっきりした個人としての人格を持っている。その自分こそが正しく、あるべき姿なのだと思っていた。こちらに越してきてからは、よく知った方言を使う人と話すことが多くなった。方言のことを疎んでいた。中島らもは「田舎の湿った人間関係の中では独立した個人の精神など育つわけがない」と吐き捨てていて、私はその根本の原因がきっと方言なのだと思っていた。方言での会話は主語や目的語が曖昧で、慣れた抑揚につられて相手の思うことも手に取るようにわかり、自分の思考も全員と共有されるものになってしまうから。こんなに憎んでいたのに、自然と訛りが口をついて出るようになってきた。そしてそれが心地よかった。慣れ親しんだ時間を共有することが、個人が独立した個人どうしでいなくてもいいことが、このように安心するのかと思った。

 

話すことは話さずにいる人生の死を意味する。だから人間はゆれる。言葉と沈黙の間を。ゴダールはそんなことを『女と男のいる舗道』で老人に言わせていた。だから私は話さない自分が死して存在しなくなることが怖かった。でも、話すことは離すことであり、放すことでもある。なくなるわけではない。話してしまえば言葉は自分を離れて、自分でないものに受け止められて、もはや自分ではなくなったものとしてその場に置かれる。そこからまた新しい言葉が発展する。それを眺めつつ、話さずにいた人生のささやかな死を認めながら、その後の時間は沈黙として引き受けて持ち帰ってきた。沈黙の次には絶対にまた言葉がある。