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Fについての話をしようと思う。Fはかつて恋人だった人であり、今では—私の認識する限りでは—友人という体裁を取っているはずだ。友人と呼べるかも躊躇われるほど久しく会っていない。最後に会ったのは、誕生日を祝う言葉をかけたから、冬だったのだと思う。
 
Fといた時間は長いようで、忘れ去られて然るべき一時でしかなかった。しかしその間のこと、Fについて話したい事柄は胸のうちに溢れるようにある。しかしFについて一体何を話すことができるだろうか?今から話すことはFに関与せず、私のみに起こった出来事であり、Fなどという人物ははじめから存在しないのである。
 
Fと初めて会ったのは春だった。昼時、人と人の間をすり抜けるようにして道中を歩きながら当たり障りのない会話を交わすとすぐに、きっとこの人を好きになる、と信じこんだことを記憶している。Fのもつ何がそうさせたのかは今でもわからない。思い出そうとすれば低い声とゆるやかにいつまでも続くような話し方が真っ先に浮かぶのだけれど、知り合った頃は桜並木が一面に満開だったし、しばらくは毎日のように新しい人と会っては鮮度の高い話をして舞い上がっていたからかもしれない。切羽詰まって私なりに覚悟を決めた春だったのに、部屋に入ってみたら窓辺に並んだサボテンの醸すゆったりと淀む空気に拍子抜けしたからだったかもしれない。それでもとにかく、毎日のようにパソコンに向かうFの背中を見ていたら本当に恋をしてしまったのだった。
 
Fを思い出すと同時に周縁の人々の記憶がついて回る。Fとの共通の友人をひとりで訪ねたことがあった。持っていった市川崑のレンタルDVDを見て気の抜けた感想を言い合い、らんま1/2めぞん一刻が全巻揃った本棚を見て感心し、カルアミルクを飲んで、見事にDVDを忘れてきたのだった。翌日に焦って連絡すると、紙に包まれたDVDがポストに素っ気なく入れられていた。
 
Fと別れて荷物を受け取り、捨て台詞のように未練がましい言葉を吐いたこともよく憶えている。その足で会いに行った彼女は困るくらいに優しく抱きしめてくれた。「新しい髪型もお化粧もとっても似合っていて可愛かったよ」といちばん欲しい言葉をかけてくれたのにちっとも喜べないのは何故だろうと、首を捻りながら快速電車で帰った。
 
Fが「グレート・ギャツビーの主人公のような」と自分を称していたことがあって、言い得て妙だと思っていた。冷めた目線ですべての物事を並列に見てしまうから、あらゆる物事にこれでもかというくらい振り回されていた私は、一緒にいるだけで安心していたのだと思う。
 
だからだったんだろう。別れてもなお好きだったのだけれど、あるとき「姉が初めて目の前で泣いた」と話したことがあった。そのときFが「会うたびに骨抜きになるくらい好きな人」という私の目線の対象から初めて外れたように思った。困ってしまった様子を見ていたら、Fは誰かの弟だったんだ、と新鮮で、何かが終わってしまったような気がした。
 
Fと最後に会ったのは冬で、確か新宿で、もう帰ろうかという頃に「私はずっと君がうらやましかった」と、口をついたようで腹を括ったような中途半端な気持ちで言った。その途端、果たして本当にうらやましかったのか、私はどうしてFが好きだったのか、すべてがわからなくなるようで実際のところはどうでもよくなってしまって、なんだかすっきりした。それ以来会っていないのは、もう会う理由がないからだと思う。これからも会うことはないような気がしている。
 
これらがFについての話であるが、果たしてFについての話と言えるだろうか。そもそも何のためにこんなことを書いているのかわからない。しかし意味などなくても、今書かなくてはいけないような気がしている。読む人が読めばわかってしまうようなところに置いておくべきではないとも思っている。しかし心当たりのうちこんなところを読む人はまずいないし、それにFがこれを読んでしまったとしても、きっと自分のことだとは思わないだろう。なぜならこのすべては私の中だけで起こったことであり、Fもその友人も、優しかった彼女も、最初から存在しない人物だからである。