ミルチャ・エリアーデの『マイトレイ』を読んでいる。あけすけな性欲とあられもない恋情と、刻一刻と変わるマイトレイの眼差しや体温がありありとそこにあるようで、心臓をどきどきさせながら本を閉じてひらいてを繰り返している。女ばかりが他者であることへの憤りはもうだいぶ薄れてしまった。

 

存在しないものを夢想することがなによりも甘く愉しいものだということを思い出しつつある。

 

とても面と向かって人に話せることではないけど、どこにも行けなかった小さな子どもがあまりにも多く居すぎる。図鑑を読んで空想に耽っていた子も、言葉を持たないまま布団の中で泣いていた子も、暗くなったら帰らなくちゃいけない子も、かわいいスカート買ってもらって昼間の庭で遊んでいた子も、全員がそのままずっといる。最近になってやっとひとりひとりのことを見れるようになってきた感じがする。

 

その先の主体の獲得について、漠然と思う。どうして行く場所の先々で混乱し続けていたのかということも。

 

パロールエクリチュールに先立つなんて絶対に嘘だ。少なくともわたしにとっては。書かれた言葉で構成された空間にしか存在できない自分というものがある。ただ、それとは別に、話したらあっけなく変わる自分もいると認める必要もある。