水の匂い

この本を読み終えたら家から出ようと思いながらどんどん外が翳ってゆき、最後のページをとじて一息つくと大雨が降りはじめた。そのまま膝を抱えて外を見ていれば何度も空が光り雷が落ちた音がする。雨は次第に凍った粒にかわり、停めてある車に打ちつけては撥ねかえるから、思わず窓を開けて手を伸ばした、何にも邪魔されない高揚感をもちながら。ずっと待っていたことに気がついた。待ちもうけていたと白痴の女を書いたのは坂口安吾だった。わたしはたしかに、このようなことを待ちもうけていたのだと思った。吹き込んだ雨風でまだらに濡れたワンピースと、腕にいくつも落ちた雫と、床にできた水たまりがただ冷たかった。
 
 
今の香水は半年ほど使っているのだけれど、水の匂いがする、と今日初めて思った。湖のような静止した水ではなくて、流れる川の匂いがする。わたしの右手首は水の匂いで、左手首はもっと芳しい甘さを含んだ匂いがする。なぜなのかわからないけれど、いつも決まって両手首が違った匂いになってしまう。ささやかな人体の不思議。
 
 
きっとあと数年のうちに東京を出るだろうと思った。そして以前のように即物的な行為を繰り返すのだと思う。前よりも感傷を含まないやり方で。
 
 
リディア・デイヴィスが好きなのは、賢くなった代償として傷つく、そのときの経緯をあまりにもそのまま書くからだ。わたしは一連を経験して何度も振り返り反芻してから恥ずかしさに目を背けてしまう、その丸ごとを彼女は書き切ってみせる。鋭利な刃物で薄く肌を削ぎ続けるような行為だ。そんなことは到底できっこない—飽き性のわたしには、抱えきれないひとつのことをそんなふうに見つめて確かめる気概がない。こうやって書くのもすぐにインターネットに放しておしまいにできるから。けれどやり方を変えてみてもいいのかもしれないと、このところなんとなく思いはじめている。ひとつひとつをおしまいにしないやり方をとってもいいのかもしれない。