Funk #49

仕事の夢と、猫の夢を見て起きた。ジェームス・ギャング聴きながらいつもと逆方向の山手線。

いつかの夏の朝、市ヶ谷の住宅街をふらふら歩いていて、通りすがったごみ収集車の助手席に乗った男の人を見た。その人は車の窓を開け放して肘をかけて、作業着の袖を捲って首元は着崩して、大きく口を開けて楽しそうに笑っていた。くっきりした黒目の奥には、どこかままならない暮らしやその中での刹那的な愉しさと、屈託なく他人に向けてきた愛情のようなものをはっきり宿していて、わたしは山田詠美の小説を読んだときの感じを思い出した。その人は薄まった藍色の空に星が弱く光るころに家を出て昼過ぎに帰る。一緒に住む女の子は綺麗なワンピースに着替えてお化粧を施せば夕方から仕事に出ていくんだ。わたしは目的地に向かうふりをしながら、収集車を追った。かろやかにごみ袋を拾って車に投げ込んでいくその人の腕と腰、楽しげに動く口の動きをずっと見ていたかった。

夜の渋谷を抜けて、千駄ヶ谷まで行くと交差点の隣にある小学校には、子供たちが手をつないで輪になる絵がかかっている。その絵を見るといつもアンリ・マティスのダンスを思い出す。違うのは、小学校の子供たちは全員がしっかりと手をつないで円を完成させているけれど、マティスのダンスでは指先がふれあうようでふれあわない隙間があること。円環は始まりと終わりが繋がればそれがそのものとして完結する。閉じなければずっと、世界を取り込みながら、自らの存在を吐き出しながら、いつまでも生成し続ける。完成しない螺旋。記憶の循環。始まりと終わりを永遠に繰り返すこと。歩きながら巡らせる思考はいつまでも形をとらずに流動しながら道を通り過ぎていつか消えてしまう。

不確定なことばかりの中を泳ぐように暮らしている。「気がする」という文末を多用している気がする。その人にはもう会わない気がする。でもあの人にはまた会うような気がする。あの部屋にもまたいつか行く気がしている。わたしの気がする根拠は何? ただ単に底に溜まった記憶がさざめきながらわきあがって、そんな気がしているだけなのだろうか。それは本当に、ただの記憶の回想であり過去の反復にすぎないのだと片付けられる感覚なのだろうか。この先々の決定だってその裏のどこかには少しでも過去の記憶が作用している。わたしはわたしがこれまで生きていた時間の堆積をなかったことにはできないのだから。何を捨ててみたところである時点ですべて仕切り直しというわけにはいかないとわかっている。だからあの人にはまた会うような気がしてしまう。だけど世界は知り得ないものばかりで、未知のものが絶えず放り込まれる今の中を泳げば新しい記憶が降り積もっていって、いつのまにかそんな気はしなくなる。SのこともYのことも彼女のことも思い出さなくなった。全部が不確実だ。