無題

新潮のコロナ禍日記リレーの号が図書館のレンタル落ちになっていたからもらってきて紫色をしたお湯に浸かりながらぱらぱら読んで坂本慎太郎の夜型のお手本みたいな生活に感心していたけれどふと我に帰って、しっかりしなくちゃな、とひとりごちて、しっかり、一体何がどうなったらしっかりしてちゃんとした人間になれるんだろう。ちゃんとしなさいというのは死んだ祖母の口癖だった。祖母が死んで私はちゃんとしようとすることをやめてしまった、やめようとしている、やめたいと思いながら電車に揺られてる。朝に考えることと夜に考えることは全然違う。歩きながら考えることと家でじっとしながら考えることも違う。一人の人間のありようとして正しくないような気がずっとしていて統一された人間になりたいと思っていたけれどもう自分を決めるのはやめだ。夜は気持ちがばらばらになるのをそのまんま見てるだけ。いつかの明るい昼間、ガラス張りの綺麗な場所に座って向かい合った人から「昔ひどいことをしてしまった相手に謝りたいと思ってるの」と打ち明けられた。そのときの私には「謝りたい」が「許されたい」に聞こえてさっと心が粟立ち「時間が経った今その人が謝罪を求めているかなんてわからないでしょう」と返した。こうして思い返せば、その人が許されたいかどうかということと相手にすまないと思っていてその気持ちを伝えたいということは直結しないのであり、あんなに刺々しいことを言う前にその人の話をもっと聞くべきだったのだ、と思うけれどなんであのときあんなふうに言ったのかって私が謝るときっていつも許されたいからだった。ひどいことをして謝った相手なんて思い出せるのは彼女ひとりだけだ。記憶について考えることに飽き飽きしている。思い出すという行為は今起こっていることであり、回想の中で過去の事象は現在を創造するために使われて、それで終わり。思い出したところで過去に起こった事象はもう変わらない。どういうふうに思い出してみてもやり直せるわけじゃない。わかるでしょ。真夜中のスクリーンで見たアンナ・カリーナに憧れていたし口元を拭うジーン・セバーグになれたらどんなにいいだろうと思っていたけれど私は私以外の誰かになれない。私は過去を巻き戻してやり直すことができないし自己を誰かと交換することもできない。今を引き受けてやってかなくちゃならない。