たまに聴きたくなって再生するんだけど、小気味良いドラムとかギターのリフなんかをさらさら聴き流して、再生ボタンをもう一度押して音楽が鳴り止めば歌詞もメロディもいつもさっぱり忘れてしまって、だから曲名と曲を結びつけて思い出せるのは今でもほんの数曲しかなくて、そういうわけで常々言っているんだけど、ひょっとすると聴き終わったら忘れてしまうような曲をわざと作っているのかもねって。だから、忘れるって曲が出たときにはやっぱり忘れるのか、と思ったけど、今年になったら忘れたいという曲が出て、やっぱり忘れてるようで忘れてないんだよな、だから今になっても忘れたいのだろうか、と思ったりした。リリースしたときに少し聴いてすぐに忘れて、今になってまた聴いてるけどなんだかわからなくてぐんにゃりした気分のまま終わり、何を覚えているのかわからないけど歩きながらまた聴いてしまう。

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けっこう長いこと聴いているバンドだと思うのにどの曲をいつどこで聴いたのか何も覚えていない。

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最近はブルーグレイという色が常に気になっている。冷たくてやわらかい色。

ラヴ・ストリームスを観た日はにっちもさっちもいかなくなっていて本当は布団から出たくないし寒いのか暑いのかわかんないし空を見ても晴れてるのかわかんなくてそのうち雨が降り始めたし、靴が濡れることや洗濯物の心配をしながらいろんなことを決めたり選んだりするのができなくて、ビニール傘の65センチと70センチのどっちを買うかも決められなくて途方に暮れていろんな検査を受けて、ほつれたセーターを直しに行った先にいた真っ黒い髪の毛を綺麗に伸ばした女の子の爪が透ける紫色でとっても可愛くて詰め合わせのお菓子に入っている甘ったるいグミみたいな色だった。ジーナ・ローランズの演技は今まで観た映画の中でいちばん狂っていた。次々と家に連れ込まれる犬や馬や鶏の表情が愛らしくて馬鹿げていて、吹きつける雨の中でその動物たちを甲斐甲斐しく世話するジョン・カサヴェテスも相当に狂っていた。カサヴェテスの映画を観ると、『こわれゆく女』を観たときもそうだったけれど、年月を重ねることへの期待みたいなものが少しだけできるというか、いや決して希望とか明るい気持ちがわいてくるわけではないんだけど、今抱えていて何もかも投げ出したくなっているような物事をもう少し年月が経ってから俯瞰して見てみたいものだなあ、という気持ちになる。たとえばもう10年経った時に20歳のときのことや今のことをもう一度思い出してみたいなと思う。前向きに受け止められるわけでもないしかといって忘れ去るわけにもいかないことばかりだし失敗を糧にしていくとかもできないし未だに人に言われることを全部真に受けて頭がおかしくなりそうだし、でもまあそういうことも年月が経てば今より少し先のほうにある気持ちで思い出せたりするのかもしれない。わたしにはあんなに気が狂った弟はいないしいてほしくもないし、これからもっと気が狂いそうなことが十分に起こり得るし、本当に孤独で頭がおかしくなる前にあんなふうに会いに行ける人がいるかもよくわからないけど、やっかいなことや面倒なことを過ごしていく経過というものをどのような形であれやってみたいなと思う。名前も覚えていなかったのに手足が長くて邪魔になると笑っていたことと抱きすくめられたときの息苦しさや、絡みつく爪先と指が妙に冷たかったことを覚えていた。

出来の悪い作家になっても構わないと勇気を奮い起こすだけでなく—本当に不幸になる潔さも必要。絶望。それに、自分を救って楽になるとか、近道して絶望を省略したりすべきではない。

現実に不幸なのにそれを認めるのを拒めば、自分の主題を剥奪することになる。何も書くことがなくなる。あらゆる主題は燃焼させる。

 —スーザン・ソンタグ『こころは体につられて(下)』

 

書こうと思っていたことはいくつかあったのにキーボードをたたき始めたらすべて吹き飛んでしまった。何も頭に入ってこないのに頭のなかを片付けることもできない。

たとえば白い彼岸花のことや、倉橋由美子が書いた積雪や柑橘について。再読したジュンパ・ラヒリと、岡本かの子について。誰もいない川沿いの道について。新調したニットと、久しぶりにかけたパーマと、菊地凛子が巻いていた青いマフラーについて。喫茶店の飴色になったテーブル。苦すぎるコーヒー。インゴルドのメッシュワーク。映像への不信感と過剰な期待。海に流れ込む川の表面。新潟に戻って10ヶ月が経った。

いつも以上に混乱しながら外を歩いていた。10ヶ月間わたしは何もしていなくて何も変わらなかったのだと思うようでいて、多分少しずつ、着実に変化がある。少しずつ本当に思っていることに気づいていて、今日突然身ぐるみ剥がされたようになってしまった。Fと初めて会ったときのことを思い出す。そのときと比較してしまう。そのときよりもずっと、昨日のことのほうが。あれから7年も経ってその間にわたしは多くのことを得すぎた。何も失わないままで何もかも飲み込むように、得ようとしすぎていた。読んだことや見たもの、したことの記憶を外套を脱ぐようにどこかに置いてこれたらいいのに。引っ越すたびにすっきりするような気持ちになっているくせに、いつまでも何もかも背負ってきてしまったことに後から気づく。忘れようとするよりもいつまでも忘れないと決意するほうが楽なのかと思う。わたしは多分あの子のことをずっと忘れられない。尾崎翠みたいに誰ともかかわらないでひとりで暮らせると豪語したくせに、まだ冬も始まらない。でもきっとそのうち新しいものが始まってしまう。何もかもをぼろ布のようにひきずった自分のままそこに身を投じていかなければならない。多分大丈夫だと自分に言い聞かせる。ぼろ布みたいな経験が自分をここまで連れてきたことは揺るぎようもない事実なのだから。

大阪旅行はこれといって特別なことがあったわけではないけれど何か不思議な感触が残るものだった。とりあえず梅田まで行く、ということだけ決めて新幹線を乗り継いで行ったはいいものの着いてみたら入り組んだ道なりやいたるところに張り巡らされた広告に辟易してしまって、わかっていて来たのに何を今更、という思いもあり、間に合わせで入った喫茶店で煙草の煙を浴びながらぼんやりしていた。若い男性二人が大声で風俗嬢の話をしていた。向かいにはすっと長い首にショートボブがよく似合う百貨店の店員がジャケットを着たまま腰掛けて、右手にアイコスをもってときおり口に運んではゆっくりと咥える。左手の携帯電話を耳に当てて、とろけそうに甘い顔をして、一言ずつ噛んでは口に含むようにつぶやいていた。疲れてたでしょう。最近。疲れてるの? 見てはいけないような気がしてどぎまぎして、目が離せなくなった。電話の相手もこんなに甘い声でしゃべっているのだろうか。その顔を見て声を聞いてみたいと思った。この世の果てみたいなこんなに甘い顔を、わたしもすることはあるのだろうか。そうこうするうちに彼女はすっと席を立ち、会計を済ませ、仕事に戻っていった。

宿についてもすることがなく、とりあえず本でも買いにいこうと思って歩いていたら熱帯魚屋を見つけた。園子温みたいと思ってつい入ると、ずらっと並んだ水槽の中にたくさんの蘭鋳が泳いでいた。頭に水疱ができた奇形のようなのと、おたふくかぜに罹ったみたいなの。皆一様におもたげな頭を左右に振りながら、ぼてっと丸い身体には短すぎるくらいの胸びれをぱたぱたとくゆらせて、何を考えているのかわからない顔つきで水の中を泳ぎ回る。昔のわたしだったら、水槽から出たら生きてはいかれないこんな生き物が生み出されて高値で取引されるなんてと心を痛めたかもしれないな、と思って、昔のわたしが思ったかもしれないことを想像するのは不思議だ、しかし何もいわなくてすぐに病気にかかってしまいそうなこの魚は、かわいいやつらだな、と思った。

九条駅から北西のほうにまっすぐ歩いていくと大きな川があり、西九条駅に行くにはその川の下にあるトンネルを抜けなければならなかった。階段を下っていくとひんやりとして四角いトンネルが伸びていて、等間隔に設置された工事用ライトが余計うす暗い印象だった。川の底にいるんだ、と思ったら背筋がぞわっとして足早になる。警備員が一人立っていて、こんにちは、とひとりひとりに向かって気さくに挨拶していた。そうでもしないとここで誰もいないときに誰かと何かが起こったらどうなるんだろう、と思った。こんなトンネルひとつ通るのにも怯える自分に少し苛立った。

シネ・ヌーヴォで手に取った雑誌には松浦寿輝の『花腐し』の実写化撮影をしていることが綴られていた。純愛、という安いワードが目についた。そんな話だっけ。フランス人か中国人の面妖な女に誘われてワインとドラッグを溺れるように飲んで、屋根裏部屋でべとべとな体液を交換しながらやりまくって、朝になったらむせかえるような匂いだけ残して忽然と女は消えている、みたいな話じゃなかったっけ。

 

宿の近くの本屋で買った古本は大庭みな子の初期作で、ビジネスホテルの風呂の中や飛行機で読んだ。洒脱でコミカルな会話の応酬と、倦怠感のいきつく先にある耽美な錯覚。馴染みのない土地で読んでいたら、移動そのものが思考の過程であるような気もした。

 

「今しがたも寝たいって男の電話があったのに、そっちを断って、あなたにはどうぞ、どうぞ、って言うなんて、ちょっと気が引けるのよ」
「いいからさ。結婚申し込みをしている男なんだぜ。証拠に婚約指環をやるよ」
 ガクは本当に酔っ払っていた。
「まあすてき。コーヒーとケーキで教会のロビイで婚約発表のパーティをしましょうよ」
「阿呆。そんなことをしたら、もう他の男と寝られなくなるんだぞ」
 電話が切れるとサキは机の抽出しから小さな鏡をとり出して自分の顔を映した。それはもう若い顔ではなかった。陽に焼けて、目のまわりには黒い汚点が目立っていた。これが、つかめる最後の機会かも知れなかった。彼女は眼を閉じ、少しも構図のまとまらない画面に再び苛立ち始めていた。

  —大庭みな子『構図のない絵』