実家に帰ると玄関のすぐ前に薄紫色をした花が何輪もぼうっと浮かびあがって、その下に花弁が散らばっていた。赤茶けたような夏の夕暮れの中で、その花の白さだけがお伽話の中で発光しているようで、異様だった。芙蓉の花かなと思ったけれど、どうやら木槿という花らしい。立葵と芙蓉と木槿。よく似ている。

柱に蚊がとまっているのを見つけてばちんと叩いたら、潰れた死骸から真っ赤な血があふれて、べったりと手のひらに付着した。柱にも染みがついた。それを見たら、ただでさえ淀んでべたついた夏がさらに粘度を増してまとわりついてくるような気がして、あーとか言いながら、洗面台の蛇口をひねって流水に手をさらした。柱の染みはべっとりしたまま残った。

はずみがついて、しばらく夏目漱石ばかり読むことになりそう。『それから』に出てくる女が鈴蘭を生けた鉢の水を飲み干してけろっとしているのがよかった。ときおり女は自己を映す機能をもった他者として描かれる。けれど漱石の書くこういう女は、ただひたすら理解の範疇を超えた存在という感じがして好ましい。

夏になってからもう3回も水をこぼして手元の広辞苑を濡らした。あと数日で20代が終わる。これからはもう20代でいなくていいことが喜ばしい。生き延びてきた10代や20代の自分が溺れないように、なんとかして救いたいと思っている。