海の近くへ行った。陽が服の上にたまってゆくような心地に包まれながらバスに揺られると、立ち並ぶ家、新しい店構えと古ぼけた軒下、走る人、大きな河口とつぎつぎに景色が移りかわる。あの川に舌をつけたらどんなふうだろう。春の温みと生半可な塩辛さを想像する。今まで決めたことや決めなかったこと、ひとつひとつの分断が無効にされながら大きくて長いものに巻きとられてゆくような気分を覚える。ずっと見たかった海は潮の匂いと鈍い青がどこまでも果てしなくひらけるばかりだった。可憐な紫色をした浜大根が点々と咲く砂浜にぺたりと腰をおろすとスニーカーにさらさらと砂がしみこんだ。
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中庭にある大きな階段を上がると数体の彫刻があった。白いシャツを着た人がふりかえると真夏の木の緑によく映えた。画家の名前を聞いたときに真っ先に思い浮かんだのは燃えるような赤を基調にした立ち姿だったからきっとその場所で観たのだ。ガラス越しに眺めたすべすべした陶器の瑠璃色もそこで。すべりおちた思い出はすべりおちたままで。そういったすべてを意味がないままにそのひとに話したかった。手を掴んでひきとめていつまでも話を聞いていたかった。
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