うわさのあの子

いいかげん読まない本は手放さなきゃと思いながら、本棚に並ぶまっピンク色した背表紙の単行本を引き抜くと素っ裸の女が黒々とふといアイラインで囲んだ目でぎろりとこちらを睨む、アラーキーの写真ってあんま好きじゃないしこれ売ろうかなと思ってぱらりとめくるとひと息で釘付けになって床に座りこんだまま一気に読み終えた。これはずっと前に誰かがくれた本。えんぴつでたくさん傍線がひいてあったけど、わたしのじゃない。こどものままくすりと酒とセックスを覚えてどろどろにまざりながら生きること、鈴木いづみのことをなんにも覚えていなかった。忘れたまんまで東京に出てきたわたしはグループ・サウンズを聴いたりしていたのだ。本牧ブルースをつられて口ずさむ。きのうはきのうあしたはあした。わたしは主義主張のないめちゃくちゃな浅薄さがけっこう好きだ。何回忘れてしまっても好き。景色の裏側を見ているような観念的な気分を抱えたまんまで、あいつの焦点があわないうつろな目とか叱られた子供みたいに目に涙をいっぱいためてごめんねと言ったその震える声を、実物と対峙したあのときよりもなまなましくおもいだしていた。
 
てんかんを起こすたびに知能が低くなっていくジュンの描写とか、目を点にしてステージにつったってゆらゆら揺れてるだけで歌えない人とか、アケミはハイになると烏と交感できたんだとか、希死念慮があるからいますぐ病院に連れてってくれと言った人とか、狂った人の狂ったときを書いたものがわたしは取り憑かれているように好きだ。それらを読むと正常と異常の狭間に引かれた線を手繰り寄せられるような気がする。けれど、くるった人とふつうの人の違いはつまるところなんだというんだろう? 人は環境の中に産み落とされる。生きている限り環境から逃れられることはできない。ひとりの人間として環境に適合してふるまえるような身ぶりを獲得したにすぎないのではないか。人は環境から切り離されればもはや正常か異常かの判断基準すらもたない。けれど、人は環境から切り離されて生きていくことなんてできないから、生きるためにはせめて自分の中だけでも環境をシャットアウトしたい、そう願うのはごく自然なことのように思えるのだけれど—。
 
ひたすらに死の淵をのぞきこんだ人が書いた文章や歌った歌に、ふかく安堵を覚える。環境の中で正しく居られなくたって大丈夫だと思える。
わたしはえんぴつでいっぱい書きこまれたピンクの本のことを忘れてしまってもやっぱり手放せない。